パタパタパタ、と甲高い音が、静かな理事長室に響いた。
「……雨、か?」
書類に向かっていた目を窓に向ける。
壁の時計を見やると、すでに午後5時を過ぎている。だが初夏の夕方はまだ明るく、気温もそう低くはなかった。
恵みの雨だな、と天之橋は思い、一心に向かっていた机から立ち上がった。
雨が降るのは久しぶりだ。今年は空梅雨で、小雨は降ってもまとまった雨は降っていない。
歩いて登下校する生徒たちには可哀想だけれど、たまには雨も良いだろう。
そう思いながら、ふと、窓から階下を見ると。
「………!」
少しだけ見える薔薇園のそばに、遠目でも間違えようのない少女の姿が見えた。
天之橋は衝動的に踵を返し、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
息を切らせて近づくと、少女が雨の中、傘も差さずに空を見上げているのが分かった。
なんとなく声を掛けそびれ、天之橋はじっと少女を見つめた。
彼女は、いつも自分と一緒に世話をしている薔薇にそっと触れながら、愁いを帯びた瞳で薄暗い空を眺めている。
それが何故か、近寄りがたく思えて。けれど、彼女と違う世界にはいたくなくて。
天之橋は、見えないバリアを乗り越えて彼女に触れる。
「天之橋さん」
ゆるりと振り向いた少女の瞳はもう、先ほどの憂鬱な色を失っていて。
一瞬、驚いた表情をした後、ふわりと微笑む。
「おさんぽですか?」
本降りになる雨の中、少し聞き取りにくい声で、少女は平然と言う。
天之橋は小さく笑い、彼女の頬に張り付いた髪をすくった。
「ああ。君もかい?……だけど、傘も差さずに濡れていては、風邪をひいてしまうよ」
そう言うと、少女はおかしそうにくすくす笑った。
「……?」
瞳で問う天之橋に、頬に置かれた手に自分の掌を重ねながら、
「だって。そういう天之橋さんだって、びしょぬれじゃないですか」
言われて初めて、そのことに気づく。
彼女のことで頭がいっぱいで。
傘を持ってくることなど、考えもつかなかった。
「参ったな……これは確かに、私の失態だ」
両手を広げて降参のポーズを取ると、少女はもう一度笑い、そして空を見上げた。
「………ねぇ。天之橋さん」
「なんだい?」
「雨って、好きですか?」
「うん?」
問い返しながら、同じように空を見上げる。
薄暗い雲が、辺りの空一帯を覆っていて。
ほの暖かい雨を降らせている。
「雨が降ると、世界が暗くなって、温度も下がって。太陽は見えなくなってしまいますよね」
「………あぁ」
彼女は雨が嫌いなのだろうかと、天之橋は思い。
少しだけ、残念な気分になった。
花を育てる者として、雨は不愉快なものではなく、野に生きる植物や動物を生かしてくれる大切な存在だと思っていたから。
「太陽は……」
少女は、一度だけ首を振って続ける。
「太陽は今も、雲の向こうに存在しているけれど。でも、いつでも見られる訳じゃない。
見られるのが当たり前だって思っちゃいけないって……雨が降ると気づくんです」
まるで何かの謎掛けのようなそれを、天之橋は黙って聞いていた。
「そして雨は、そのあとに出る太陽をとてもきれいに見せてくれる。
そのきれいな太陽を、一緒に見たいと思う人がいるって……倖せだと思います」
だから私、雨が好きです、と。
囁くように言い、少女は瞳を閉じた。
「………好きな人が……いるのかね?」
問いながら、天之橋は後ろから少女の肩に腕を置いた。
彼女の胸の前で、両手を組む。
「はい」
少女は抗わず、ためらうことなく頷いた。
「……そうか」
甘い苦しみが、頭を巡る。誰か、とは聞けなかった。
不安とほんの少しの期待のために。
「でも私、それを伝えるつもりはないんです」
自分の頬を伝った雨粒が、少女の髪に落ちていく。
「……どうして?」
それを眺めながら、短く問うと。
「そのひとに会えるだけで、私……おかしくなっちゃいそうだから」
自嘲を含んだ呟きの艶めかしさに、どきりとする。
「そのひとに、告白なんかしたら。壊れちゃうかもしれない。
変ですよね……私。好かれてる自信なんてないのに」
少女の口調は、いつもと違って素直なものではなくて。
天之橋は、懸命に言葉を選んで返す。
「変ではないよ。どんな状況でも不安になる、恋とはそう言うものではないのかね?
ただ……少しだけ、君にしては後ろ向きだとは思うけれど。時にはそれもいいだろう」
「そうですか?」
ふふっと笑い、少女は自分の眼下で組まれた手にそっと触れた。
「私、こんな人間ですよ。いつも心は不安でいっぱいで。でも、それを認めたくなくて、強がってる。
あのひとは多分、前向きで素直で笑ってる、太陽みたいな私が気に入ってるんです。……だから」
手に落ちかかる、雨よりも温度の高い雫。
「こんな、雨が降っているときは……あのひとに会っちゃいけないって、そう、思うのに……」
「水結」
天之橋は、少女の名を呼んだ。
「自分を蔑んではいけないよ。不安に思ったり、苦しんだりするのも恋の内だ。
だけど、自分を蔑むことで事態が好転することは有り得ない」
組んでいた手を解き、すっかり濡れそぼった髪をなでる。
「君はどんなときでも、素敵な女の子だと思うよ。……私が保証する。
例え、ずぶ濡れでも……ね」
腕の中の少女が振り向き、真摯な瞳が天之橋を見上げた。
「さぁ、そろそろ戻ろう。本当に風邪をひいてしまうよ?」
そう言って笑った、天之橋に。
少女は少し笑顔を見せたが、それでも、頷こうとはしなかった。
無言のままの少女にため息をつき、彼は上着を脱いで彼女の肩に掛けようとした。
刹那。
雨にけぶる少女の瞳が、ほんのかすかに揺れた。
「……私……ずるい、ですよね……」
その言葉の意味を、天之橋が考える前に。
少女は上着を受け取り、長身の彼を促して、かがませると。
彼の頭の上からぱさりと上着を掛け、出来た傘の下に入るように、彼に身をすりよせた。
天之橋は思わず、その身体を抱き締める。
離れていると、濡れてしまうから既にずぶ濡れの体で、そんな薄弱な理由を自分に言い聞かせながら。
「大丈夫です……明日は、いつもの私に戻れます」
また、自嘲気味に言う彼女に。
「いつもの君でない君も、魅力的だよ」
さりげなく、気持ちを隠して。
天之橋は、東の方から明けてくる雨足を、別の世界のことのように感じていた。
FIN. |