「………?」
不意に。
湯につかった服が、わずかに引かれた。
目を上げると、水結の手が私の袖を掴んでいる。
その瞳は、壁の一部をもどかしそうに見上げていて。
視線を辿ると、そこにあるのは 時計……?
「あの……」
彼女は、おずおずと口を開いた。
「ごめんなさい。また、お気に障ってしまうと思うんですけど……今だけ、何も言わずに聞いてください。
私、どうしても今日、天之橋さんに……」
言い淀み、彼女は袖を掴んだまま、片手で湯船に漂うコートを探った。
ポケットから、ずぶ濡れになった箱を取り出す。
「これを……どうしても、お渡ししたくて」
「……これは?」
尋ねると、彼女は泣きそうな顔をした。
「もうすぐ……卒業だから。今年で、最後だから。
お誕生日のうちに、お渡ししたくて……」
私は驚いて彼女を見た。
そういえば今日は、2月5日。私の、誕生日……?
「まさか……そのためにこんな夜中まで?」
思えば今日は、学園の仕事を3時には終わらせ、その足で理事長会の会場に向かった。
その時まだ授業中だった彼女には、こんな方法しか残されていなかったのだろう。
こくりと頷く彼女に、私は複雑な想いを禁じ得なかった。
それが彼女の厚意だということは分かる。
正直言って、感激しないわけはない。
私のために、寒いのを我慢して何時間待っていてくれたのか。
嬉しいよ。
ありがとう。
でも、こんな無茶をしてはいけないよ。
体を壊したら、大変だからね。
彼女の気持ちを気遣う優しい言葉など、いくらでも湧いてくるのに。
「 水結」
しかし、私の声音は、硬いままだった。
「もう二度と……こんなことはしないと誓ってくれ」
ああ、駄目だ。
こんな言い方は、彼女を傷つけてしまう。
せっかく私の誕生日を祝おうと待っていてくれたのに、私の口からはそれを責める言葉しか出てこない。
もしも、彼女の身に何かあったら。
それが、私の所為だったら。
そんなことを想像するだけで戦慄する。
「頼む。……こんなことでは私は、この先どこにも出掛けられない。
離れているときに、君に何かあったらと思うと……」
差し出された箱ごと、彼女の手を握りしめる。
そのとき、思いがけないことが起きた。
私の言葉に、傷ついた表情で涙をこぼすと思っていた、水結が。
ふわりと 微笑った、のだ。
「……わかってます。もう、こんなことしません」
哀しそうに、ではなく、恥ずかしそうに。
握られた手を、きゅっと握り返して。
「今日は私、ちょっと思い余っちゃったみたいです。ごめんなさい」
「何を……だね?」
私が尋ねると、水結はそれには答えず、ふるふると首を振った。
「いいんです、もう。……もう、それだけで十分です。ありがとう……」
私には、彼女の言っていることが理解できなかった。
けれど彼女は、この上なく倖せそうに笑っている。
何か……彼女にとって、嬉しいことがあったのだろうか?
不思議に思いながらも、私はつられて微笑んでいた。
「……すまない。つい、酷いことを言ってしまって……服も濡らしてしまったね」
「いいんです。私こそ、心配かけてごめんなさい。あの……」
彼女はふと、俯いて。
急に声を小さくして、ぽそぽそと呟いた。
「天之橋さんも……お風呂に、入らないと。風邪をひいてしまいます」
「ああ……そうだね。では、君はここのバスルームを使いなさい。私は他を使うから。
いいかい、良く暖まるんだよ。湯冷めしないように。代わりの服はすぐに用意させるからね」
「え?……あ、っ」
小さく声を上げて何かに気づき、顔を赤くする彼女がそのとき考えたことを。
自分の感情に手一杯だった私は、見通すことができなかった。
「……そうだ、これは」
彼女の手に残る、小さな箱をそっと受け取る。
「後で、君が風呂から出てきたら一緒に開けよう。お礼はその時、まとめて言わせてもらうから」
彼女の濡れた髪を、ざっと掻き上げて。
くすぐったそうなその頬に、口づけを落とそうとして
水結の唇が先に、私の頬に触れた。
優しい囁きと、一緒に。
「お誕生日……おめでとうございます。天之橋さん」
それ以降、私が自分の誕生日を忘れてしまうことはなかった。
FIN. |