「小沢くん」
彼はいつも、優しい声で彼女を呼ぶ。
穏やかで落ち着いた、耳に心地良い声。
少女はいつも、その声を聞くとほっと安心してしまう。
昇降口を出たところで呼び止められた少女は、振り返りながら間違えようのない名を呼び返した。
「天之橋さん」
そこには、予想に違わない人物が微笑みながら立っている。
「よかったら、一緒に帰ろう。車で家まで送るよ。」
「はい、でも……よろしいんですか?お仕事があるんじゃ……」
時刻はまだ、4時を過ぎたところ。
多忙な学園理事長の日々の予定からすれば、そんな時間に暇を持てあましていることはめったにない。
「いや……うん、今日は思いのほか仕事が早く片づいてね」
彼女を送った後、学園に戻って仕事を続けるつもりだった天之橋は、さりげなく誤魔化した。
とは言っても鞄を持っていないので、見る者が見ればばれてしまうことは間違いないが。
天之橋は、校門に向かっていた彼女を職員用の駐車場へ促した。
「それより、ちょうど今、君のことを考えていたんだよ。奇遇だね」
「どんなことですか?」
嬉しそうな彼女に。
「そうだね……例えば、次の日曜日は空いてるのか、とか」
謎掛けのように呟く。
「期末テストで一位を取った誰かさんに、アフロディーテ号が会いたがってる……とか」
「えっ!?」
アフロディーテ号のことは、以前聞いたことがある。
はばたき学園の前理事長だったらしい父親からプレゼントされたという、クルーザーのことだ。
天之橋は夏には必ず、そのクルーザーで海に出ていて。時にはイルカやシャチに出会えるということだった。
その話を聞いたとき、少女は目を丸くして握り拳を固め、言外に羨ましいと言っているような表情で彼を見つめた。
『夏になったら連れて行ってあげるよ』なんて、社交辞令だと思っていたのに。
「君はいつも、頑張っているからね。ご褒美に少しでもくつろいでもらおうと思って」
「あ、あ、空いてます!日曜!月曜の振替休日も、その後の夏休みも、ずっと空いてます〜!!」
力をこめて叫ぶ台詞に、驚いてみせる。
「これは嬉しいな。夏休み中ずっと、私に付き合ってくれるのかい?」
「はい!」
嬉しさに我を忘れ、深く意味を考えない少女。
天之橋は苦笑し、彼女の髪をさらっと撫でた。
「ありがとう。だけど、とりあえずは日曜の話をしようか。一緒に出掛けて頂けますか?お嬢様」
持ち上げられた手を恥ずかしそうに見つめながら、少女はこくりと頷いた。
そのとき。
「お〜い。水結〜!」
少し離れたところから、少女を呼ぶ声が聞こえた。
キスされそうになった手を、あわてて引っ込める。
「……あ。まどかくん」
「自分、歩くの早いな〜。廊下の向こうにおったん確認して追っかけてきたのに……っとと。
あ。こりゃ、理事長はん」
近づくにつれ、死角になっていた彼女の同行者が見え、まどかは一瞬まずいと思った。
少女と理事長がよく二人で出掛けていることは、まどかも知っていて。
用事があるとはいえ、そんな二人の間に割り込むとは、遊び人の名がすたる。
回れ右した方がええやろか、と考えた彼に、天之橋はにこやかに話しかけた。
「やあ、姫条君。久しぶりだね。体育祭以来かな?」
「あ、もうそんなになってますか」
「ああ。期末テストの結果も見たよ。もう少し、頑張らないとね」
「あちゃ。理事長はん、それは言わん約束ですわ〜」
二人の会話を聞いて、くすくす笑う少女に。
まどかは思い出したようにせや!と声を上げた。
「忘れるとこやった。水結、自分、オレのCD持ったままやろ」
「え?……あっ!」
あわてて鞄を探り、そこからCDを取り出す。
「ゴメン。そういえばお昼、結局返せなかったんだったね」
「スマンな、普段やったらいつでもええんやけど、今日貸すって言うてしもたさかい」
「ううん、私こそ。すごくよかったよ。また貸してね!」
「おう!じゃ、なっ」
「じゃあねー」
早々に立ち去るまどかに、ヒラヒラと手を振る。
一緒に彼を見送ってから、天之橋はふと疑問を口にした。
「今のCDは……もしかして」
ぎく。
少女の肩が、わずかに揺れる。
「な、なんですか?」
「……いや」
先日、少女と観に行ったバンドのCDかと思ったが……見間違いだったか?
「なんでもないよ」
天之橋がそう言うと、少女は隠れて胸をなで下ろした。
彼が好きなバンドだと知り、洋楽好きなまどかに借りてこっそり勉強したCDを、まさか本人の前で返す羽目になるとは思ってもみなかったから。
「そ、そんなことより。天之橋さん、よかったらお茶して帰りませんか?」
再び歩き出しながら少女がそう言うと、天之橋はふむ、と頷いた。
やりかけの仕事が、少し気になったけれど。
「……そうだね。では、日曜の話を詰めようか?」
「はい!」
それよりも、彼女の笑顔の方が気になったから。
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