「だめだよ〜なつみん、届かないよ」
困った様子で訴えてくる親友に、ぞんざいにあたりを掃いていた奈津実はじれったそうな目を向けた。
「思いっきり延ばしたら届くって」
「だって、元が外れそうで……やっぱりもっと長いやつ借りてこようよ?」
「そんなめんどくさいことやってたら掃除の時間終わっちゃうよ!もー、貸してみ!」
ついにほうきを放り出して、もたもたしている彼女の手から園芸用のホースを奪い取る。
「こんなもんはさぁ、どうにかして水が掛かればいいんだよ。水道、一番強くしてきて」
「う、うん……」
小走りに水道元へと走っていく少女を見送ってから、ホースの届かない花壇に向かって思いっきり放水口をつぶすと、さあっと音を立てて霧状になった水が撒かれていく。
それを満足げに見ていた奈津実の、手に。
いきなり、予想以上の負荷がかかった。
「うわっ!??」
思わず取り落とした、激しく踊るホースの先に。
「あ……り、りじ………」
「…………藤井くん」
頭からずぶ濡れになった、学園長の姿。
「きゃああっ!あ、天之橋さんっっ!??」
数メートル背後で、絶望的な親友の声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
「ああ、そんな顔をしなくていいよ。シャツは替えがあったし、上着もすぐに乾くだろうからね」
「でも……でも、私がいきなり水道を開けたから……」
今にも泣き出しそうな顔でおろおろと狼狽える少女に、天之橋は優しく笑って見せた。
「あのホースは、長い物に換えなければと思っていたところだったんだ。横着をしていた私も悪かったから」
「そんな……私が、悪いんで…すっ……」
気遣われる言葉に、余計に泣きそうになるのを見かねて。
それまで黙ってタオルやら何やらを差し出していた奈津実は、やれやれ、と息をついた。
「……まぁ、やっちゃったのはしょうがないじゃん?それより、何ができるかを考えた方が建設的だよ」
当事者の一人としては、少し無責任に聞こえる台詞だけれど。
それが少女をフォローするためだと分かっている天之橋は、言及しない。
「うーんと。まあスーツは乾くのを待つとして、問題は髪…だよね」
すっかりセットの崩れた天之橋の前に立って、奈津実は彼をしげしげと眺める。
その瞳が、にんまりと輝いた。
「リジチョ、髪を下ろした方が数倍カッコイイと思うけど。今日一日くらいそのままでいる気、ない?」
その言葉に焦ったのは、本人ではなく横で見ている親友の方。
「な、なつみん!何言い出すのよ!」
「なんでよー。どうせならカッコイイ方が……あ!わかった〜、アンタ、ライバルが増えると困るもんだから」
「なつみん!!」
からかわれる台詞に、少女の頬が紅潮する。
それを綺麗に無視して、奈津実はごそごそと鞄を探った。
「そういうことだったら仕方ないか。アタシとしてはもったいないと思うけどね」
化粧ポーチからムースとブラシを取り出し、少女に渡す。
「じゃ、アンタは責任持って元に戻してて。
濡れた髪だったらうまくまとまらないかもしれないから、アタシは宿直室でドライヤー探してくるよ」
「う、うん……。……でもなつみん、なんでカバン持ってるの?」
「……………まぁ、それはいいから」
掃除が終わったらHRをサボって帰るつもりだった奈津実は、さすがに言葉を濁してそそくさと部屋を出た。
後に残ったのは、二人。
少女はふう、と息をつくと、気合いを入れるように制服の袖を捲って天之橋を振り返った。
「じゃあ、天之橋さん。むこう向いて座ってください」
「え?」
至極真面目に告げられる台詞に、少し狼狽えて。
思わず、椅子から立ち上がる。
「い、いや……構わないよ。貸してくれれば、自分でできるから」
「だめです」
答える声に、取り付く島はない。
「私がご迷惑をお掛けしたんですから、私がやるんです」
「いや……その……」
「座ってください」
責任を取ることを勢い込みすぎて、据わっている目。
天之橋は仕方なく、椅子に座り直した。
「えっと……とりあえず、とかしますね」
湿った髪が、ブラシで整えられる感触。
慎重に慎重に動く動作が、緊張した身にはどうにもむずがゆくて、思わず無意識に避けてしまうと。
「動いたらだめです!」
途端に、集中している彼女からお叱りが飛ぶ。
苦笑を浮かべて良いのかどうか、態度を決めかねたまま身を任せていると、どうやら納得がいったらしい少女がムースの缶に手を延ばした。
「つけますよー」
白い泡を馴染ませるために、ざっと掻き上げられる、髪。
硬いブラシではなく柔らかい指が触れたことに思わずびくりと震えると、また、声が掛かる。
「動いちゃだめですってば」
「いや、しかし……その」
「すぐだからじっとしててください。んー、やっぱ足りないか……もうちょっとこっちにも……」
ぶつぶつ言いながら悪戦苦闘する姿に、今度こそ苦笑が漏れた。
一頻りいじくった後、少女は前に回って全体を見ると、満足げに頷いた。
「うん。たぶん、これで大丈夫だと思います……け、ど」
急に不安げに瞳を揺らして、化粧ポーチから鏡を取り出そうとするのに、微笑んで。
「いや、構わないよ。ありがとう」
手を振ってそれを謝絶し、心配そうな彼女の頭を撫でる。
その髪が、かいた汗で乱れて張り付いているのを見て取り、天之橋はくすりと笑って少女の手を引き、自分と入れ替えに座らせた。
「?」
不思議そうにしながら、すとんと椅子に腰かける彼女に。
「では、お返しに君の髪も整えてあげよう」
笑いを含んで、囁く。
少女は一瞬言葉を失って、次の瞬間一気に赤面した。
「い、い、い、いえ!結構です!」
その反応を予想していた天之橋は、わざと耳を掠めるように髪を梳いて小さな頭を抱え込み、身を竦ませる彼女の髪に口づけた。
「遠慮することはないよ。瞳を閉じてじっとしていなさい」
「やっ……あまのはしさん、やめ……」
「おやおや。自分はあんなに好きに弄り回したくせに、私には何もさせてくれないのかい?」
くすくす笑いながら、彼女をからかっていた天之橋は。
かたんというかすかな音に、ふと、入口に目をやった。
そこには。
今まで見たことがないくらい、面食らっている彼女の親友の姿。
「あ…………」
彼と目が合うと、奈津実はドライヤーを持ったまま、彼女らしくなく焦って頭を下げた。
「ご、ご、ごめんなさいっっ!!」
「藤井くん?」
彼が訝しげに呼ぶのと同時に、だっと理事長室を後にする。
反芻して。
「!!!」
どうにもなにかの誤解を招きそうな直前の台詞に思い当たり、天之橋は彼女以上に焦ってばんとドアを開けた。
「ち、違うんだ!待ちたまえ、藤井くん!!!!」
慌てて呼び止めても、もう彼女の姿は見えず。
「あれー?いま、なつみんの声がしませんでしたー?」
のんびりと掛けられる少女の声も聞こえないまま。
天之橋は、呆然とその場に立ちつくした。
しばらくして。
学校中を探し回って、なんとか奈津実を理事長室に戻すことに成功した天之橋は、居心地悪そうにしている彼女に必死で説明していた。
「………だから、誤解なんだ。その……決して、君の考えているようなことでは……」
「考えてる事って、なんですかぁ?」
「…………………」
訊かれる言葉に、沈黙しか返せない。
奈津実は言い訳しなくてもいいですと言いたげにため息をついてみせた。
「別に、アタシはみゆうがよければいいですけど……それにしても校内でっていうのは、ちょっと……」
「……だから!」
脱力して話す気もなくなる気持ちを無理に奮い立たせ、同じ台詞を繰り返す彼を、しばらく楽しんだ後。
ソファに深く沈んだまま、くくっと笑って足を組む。
「まあ。冗談は、さておき」
「…………。も、もしかして、さっきも……」
「さ・て・お・き!」
がらりと変わった表情に、なにかを思い当たった天之橋を無視して、組んだ膝に手を掛けて少し身を乗り出す。
「マジな話……理事長を信用してるからこそ、言いますけど。
まだ、早いですからね?」
肝心な部分は韜晦しながら、見つめる。
「アタシが口出す事じゃないけど。あのコの性格から言っても、答えを求めるのは卒業まで待ってやってくださいね?」
何かにつけて想いが溢れそうな彼の挙動を、少しだけ牽制して。
本当に純粋に少女を思いやる、表情。
真剣な瞳が、あまりにも親友を大事にしようとする色を帯びていたから。
そしてそれが、自分の想いとあまりにも一致していたから。
天之橋はその微笑ましさに、思わず口を滑らせた。
「その程度のことは、心得ているつもりだよ。心配しなくても、大丈……」
言って、すぐ。
今度は奈津実が反応する前に、口を押さえる。
彼女の瞳には会心の笑み。
「そーですか〜!これでアタシも安心安心!」
「ふ、ふ、藤井くん!」
「大丈夫でっす、アタシからはな〜〜んにも言いませんから!
でもその代わり、あのコの答えも教えられませんからね〜!!」
ヒラヒラと手を振って、理事長室を出て行きかけた奈津実は。
「あ、それと。とりあえず今回の失言分って事で、アンリのケーキ、ヨロシク。
デパート系じゃなくて、ちゃんと本店で並んで買ってきて下さいね」
そう告げて、悪びれなく笑った。
FIN.
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