カチャカチャと、ガラス容器がかき回される音。
使い終わった歯ブラシを置いて、ざっと髪を整える。
「今日は……12時から来客と……」
昨夜確認済みの今日の予定を、知らず呟きながら。
クリームを手にとって、頬から顎に塗って。
「15時から契約に行って……その後、懇談会に……」
剃刀を当てながら、少しだけ眉を顰める。
15時に学園を出て、帰宅するのはおそらく夜。しかも昼食時には、来客。
この分では、今日は彼の少女に会える機会がありそうになかった。
それが少しだけ、歯痒い。
もう一度クリームを取って、口元に付ける。
昨日の放課後会ったときには、彼女は今日、調理実習だと言っていた。
上手く焼けたら持ってきますからと言っていた焼き菓子を持って、彼女は今日も理事長室にやってくるだろう。
そこに自分が居なければ、もしかしたらそれは誰か別の人間に渡されてしまうのだろうか?
そんなことをぼうっと考えていた、彼の耳に。
そのとき。
手入れの良い刃物が立てる、さりっという軽快な音が聞こえた。
◇ ◇ ◇
まずい。
学園の職員用駐車場で、普段は使っていない車のステアリングに身を伏せて、天之橋は嘆息した。
身につけているのは、いつもの茶系のスーツではなくて、ハイネックのニットとジャケット。少しだけ不自然な、カシミアのマフラー。
髪は洗って乾かしたまま下ろされて。念のため、伊達眼鏡も外した。
急な仕事が入ったと学園に連絡を入れ、昼の来客に予定変更を詫びたまではよかった。
けれど、懇談会は行かないにせよ、午後の契約にだけは行かなければならない。
そしてその書類は、理事長室の金庫の中。
重要な書類なので、使いを立てるわけにもいかなかった。
頼むから会わないでくれ、と祈りながら学園に着くと、駐車場の向こうに見える校庭には生徒の姿。
思わず隠れるように俯いたが、こうしていても危険は増すばかり。
意を決して、ドアを開けて車を降りる。
態度がこそこそしないように、でもすばやく、と気を遣ってしまうあたり、すでに挙動不審者以外の何者でもなかった。
学園に入るまで誰にも会わないというわけにはいかなかったが、守衛はビジネスライクにIDカードを確認しただけで彼の様子については何も言わなかったし、分からせる必要のない生徒や職員は全く気づかない。
自分でわざと作っているのは分かっているが、そんなに普段のイメージと違うのかと驚く気持ちと、落ち込む気持ちが半々。
詮無い威厳ではあるけれども、若くして学園を継いだ彼にはそれは努力の象徴であって、それがないと自分の存在価値が半減してしまうような感覚さえ覚えた。
気持ちは沈みながら、難関をいくつもクリアして理事長室に入る。
金庫の鍵を忘れたなどというお約束もなく、無事に書類を手に入れて。
忘れ物がないことを、三回も確認して。
なるべく生徒が通らなそうな道を道を選んで、駐車場に戻る。
なんとなく、すれ違う誰も彼もに見られている気がする。
思わず、書類封筒で顔を隠すように歩いた。
服装は職員と変わらないはずで、外見もわざわざ自分と分からなくしているのに、何故注目されるのか分からない。
見覚えのない人間がうろついていると、不審に思われているのだろうか?
それともバレていて、笑われているのだろうか?
明日、学園中に噂が流れていたらどうしようかと本気で思い悩む。
あと数日間は出勤しない気でいるので、覗きに来られたりすることはないだろうけれども。
そんなことになったら、彼の少女にそれがバレてしまう。
彼女に笑われてしまうのだけは避けたかった。
そうこうするうちにやっと駐車場が見えてきて、ほっと息をついて半ば駆け寄るように近づく。
鞄から鍵を探す、背後で。
「あれ?天之橋さん?」
今、一番聞きたくない声が、聞こえた。
◇ ◇ ◇
「事務の人に、今日は急な御用でお休みですって言われたんですけど。いらしてたんですか?」
振り向かないでも分かる、弾んだ声。
一瞬、このまま聞こえなかったふりをして車に乗ろうかと思ったけれど、その声を聞いてしまったら応えないわけにはいかなくなった。
「…………あ、ああ。うっかり書類を忘れてしまってね。その、今日は、それを取りに来ただけなので……私服で来てしまったのだけれど」
「ああ、それで。いつもと違う格好をしていらっしゃるから、どうしたのかと思いました」
仕方なく、書類封筒で顔を半分以上隠して振り向く。
少女の姿は、制服にエプロン。頭には三角巾。
なぜだか分からないけれど、その頬は紅潮していて。
思わず、状況を忘れて笑みが漏れた。
「君は……もしかして調理実習、かな?」
「そうです……あ!……あの、これ……明日にでもお渡ししようかと思っていたんですけれど」
そう言って、差し出される包み。
ピンクのリボンを結ばれたそれを、見下ろして。
天之橋は少しだけ苦笑気味に笑い、礼を言って受け取った。
「あの……お口に合わないかもしれないんですけど」
「いや、有り難う。明日から数日、出張が入ってしまったから……もうもらえないかと思っていたんだ」
嬉しさを隠せない言葉に、返されるのは嬉しそうな笑顔。
それをずっと見ていたい気持ちはあったけれど。
「すまないね、今日は少し急ぐから。これのお礼は、また後日に」
そろそろ顔を隠し続けるのも不自然だったので、背を向けると同時に封筒を下げた。
目の前に。
「あ………………」
駐車場のフェンスを乗り越えてきた、彼女の親友の姿。
「…………!!!」
時間が、止まる。
「なつみん!もー、探してたんだよ!抜けてジュース買いに行くって言って帰ってこないんだから!
早く戻ろ、クッキーもう焼けたよ」
明るく響く少女の声が、二人には遠くに聞こえた。
「りじ………」
奈津実がなにかを言い出す前に。
「藤井くん!」
視線に、懇願に近い色。
奈津実が下げていたジュースの袋が、がちゃんと音を立てて落ちた。
爆 笑 。
「え?えっ!?なつみん、どうしたのっ!?」
「ふ、藤井くん……」
情けなさそうな声を出す学園長を見やって、もう一度爆笑して。
奈津実は涙の浮いた瞳を拭いながら、袋を拾った。
「あ、ぁー、おなかが……くる、し……っ!
だ、大丈夫、ですよ。分かってま、すからっ……ぶ、ふっっ」
車と彼の横を通り過ぎながら、もう一度。
「なつみん!?どうしたのよ、何があったの!?」
意味が分からず、焦っている親友の肩を叩いて。
「何でもない、思い出し笑い。で、でも、これで学内に自販機、設置してもらえそうだね。
元はといえば、学内でジュースが買えないのがいけないんだから」
ちゃっかりと、要求。
天之橋が、無言で肩を落として肯定の意志を示すと、奈津実はまだ訳が分からなそうな少女の肩を押した。
「さ、行こ!焼きたてクッキーでお茶会しよ、みんな待ちくたびれてるでしょ」
「う、うん……じゃあ、天之橋さん。出張、お気を付けて行ってきてくださいね」
「……ああ……有り難う……」
ずるずると引きずられるようにして奈津実に連れられていく気配を、背後に感じて。
天之橋は、盛大にため息をついた。
FIN.
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