「ただい………おや」
かちゃりとドアを開けて部屋に足を踏み入れた天之橋は、中の光景を見て微笑した。
広いダイニングの、これまた広いテーブルの隅っこで、彼の眠り姫が子供のように俯せてすやすやと眠り込んでいるのが見えたから。
天之橋は彼女を起こさないように近づき、持っていた大きな花束を脇に置いた。
彼女の前には、色とりどりの料理。
彼の瞳が、倖せそうに細められる。
それは、彼が小さいときから慣れ親しんできた、プロのコックが出すような完璧な盛りつけではなくて。
意外と料理には器用でない少女の手の運びが分かるような、辿々しい仕上がり。
おそらく、味もいつも一定でなく、ときに甘かったり辛かったりするだろう。
料理として見たならば、あまり誉められるものではなかった。
しかし。
天之橋は何よりも、それが楽しみだった。
大切な商談先との夕食会で、ほとんど何も食べずに帰ってくるほどに。
それは少女が、彼だけのためにそれを作ったことを知っているから。
屋敷のコックに一生懸命料理を教わって。メイドにテーブルセッティングを習って。
執事の言う、料理を出したり皿を替えたりするタイミングを、忠実に再現しようと頑張っていることを。
少女には内緒で、天之橋は全部聞いていた。
冷たくこき使っているわけではないけれど、使用人たちは彼にとって生まれたときからそばにいる存在で。
世話を頼むことに、違和感を感じたことはなかった。
けれど。少女のことを喋るとき、彼らは皆、天之橋が今まで見たことのない表情をした。
『仕事』だけではない、楽しそうな、まんざらでない表情。
プロ故に、今まで自分の領域には誰も立ち入らせなかったコックも。
主人よりひどく年上になるメイド頭も。
厳格な執事でさえ、彼女のことは笑顔で話した。
何十年も見てきた自分が、見たことのない表情を。
接して間もない少女が引き出しているのだと思うと、笑みが漏れた。
天之橋は彼女の頭をゆっくりと撫で、長身をかがめた。
「……こんなところで寝ていては、風邪を引いてしまうよ?……」
「……ぅ…んん……」
彼女の目が覚める前に、身を起こす。
キスしていたことを、知られてはいけないわけではないけれど。
すっかり無意識に、彼女の頬に唇を寄せたことが。
そしてそんな他愛ないキスだけで、こんなに倖せを感じてしまっていることが。
自分で、照れくさかったから。
「あ…天之橋さん……?」
少女が、焦点の定まらない瞳で彼を見る。
「やぁ、よく眠っていたね。疲れているのかな?」
「いえ……そんなことないです。嫌だ、お帰りなら起こしてくれればいいのに」
妙な格好をしていないかと、身なりを取り繕う。
「ハハ。君があんまり気持ちよさそうに眠っていたから、忍びなくてね」
少女は少し頬を染めて、唇をとがらせた。
「レディの寝顔を見るなんて、ルール違反です」
その言葉に高校時代の思い出が蘇り、苦笑する。
「本当だね。……では、これで機嫌を直してくれるかな?お姫様」
そう言って、置いてあった薔薇の花束を取り上げ、差し出す。
「わぁ………」
ぱっと顔を輝かせた、少女が。
それを受け取ろうとして、一歩近づいた、瞬間。
無防備な彼女を片手で攫い、有無を言わさずに口づけを落とす。
「ん……!!むー、んーっ」
ぱたぱたと胸を叩く手が、力を失ってしまうまで。
深く口づけて、思う様に味わう。
「……っ……ん……」
彼女がおとなしくなったのを確認して、名残惜しげに唇を離すと。
「もぅ!天之橋さんの、ばかっ!」
両拳を握りしめて叫んだ少女の顔は、言葉に反して真っ赤だった。
天之橋はもう一度目を細めて、今度こそ少女に花束を渡した。
|