ほんの少しずつ、何かが変わっていくような気分になるのは気のせいだろうか?
「ごめんね、今日は用があるから」
クラスメートからの誘いをすまなそうに断って、少女はじゃあねと手を振った。
教室を出ると、中庭の新緑に目を細めてからぱたぱたと走り出す。
それを見たら眉を顰めて注意しそうな担任の行動パターンも大体分かってきた、そんな時期。
家でもそう多くはないけれど、学校では特に、彼女が時間に縛られることはほとんどない。
普通に授業に出て、放課後になればそれで終わり。
クラブに入れば別なのだろうが、さほど興味もないし、それくらいなら早く家に帰って仕事を覚えたい。
そう思う彼女にとって、学校とは、楽しいけれど少し時間の進みの遅い場所だった。
けれども今日は、ひとつ彼女だけに任された役目がある。
それがいかにも誇らしいかのように意気揚々として、少女は弾む足取りで理事長室へ向かった。
ドアの前で身なりを整えて、深呼吸する。
彼の部屋にはもう何度か入ったことがあるけれども、学校の理事長室に入るのは初めてで。
どんな感じなんだろう、とあふれそうな興味を表に出さないよう心に留めてから、少女はとんとんとノックをした。
「……?」
屋敷のように一瞬後には返事が返ってくると思ったが、辺りは静まり返ったまま。
聞こえなかったのだろうか、それともいないのだろうかと思いつつ、二度目のノックを少しだけ躊躇する。
しかし、彼女の手が再びドアに触れる前に、かちゃりと軽い音がしてドアが内側から開かれた。
「やあ、いらっしゃい」
「え?」
目の前に現れた彼の、嬉しそうな声。
まさか理事長が自らドアを開けに来るなんて、というのももちろんだけれど、彼の態度はまるで彼女が来るのが分かっていたかのように滑らかで。
事前の心の準備は何の役にも立たず、少女は面食らって目を瞬かせた。
「え…あ、あの?」
「?……ああ」
目を丸くして見上げてくる彼女に、笑って。
天之橋は芝居がかった口調で腰を折ってみせた。
「貴女の愛らしいご様子はドア越しにでも感じられますよ、姫」
そう言いながらドアを大きく開き入室を促しても、少女はぽかんと立ち尽くしたまま。
それにもう一度笑って、彼は彼女の手を取った。
「なんてね。……そこの窓から渡り廊下を通ってくる君が見えていたから、ね」
「……あ」
そういえば、入学式にもそんなことがあった。
任務に気を取られていたせいで気づかなかったけれども、妙な挙動をしてはいなかっただろうか。
思い返してみてようやく呪縛から逃れた少女は、慌てて頭を下げた。
「あ、す、すみません……あの、失礼します!」
「どうぞ」
手を取られたまま、部屋の中央にあるソファまで誘導される。
この人はどうしてこういうことがさらっと出来るんだろうと思いながら、少女は礼を言ってソファに腰掛けた。
「それで?何か用かな?」
向かいに座った彼のその言葉で思い出したように、背筋を伸ばす。
「そうだ。……あの、伯母さんから言付かってきたのですが」
「うん?」
「今後、下校するときに旦那様の夕方以降のご予定を聞いてくるように、と」
「私の予定を?」
「はい。私の方が先に帰宅しますから、予定変更があれば私が伝えます!」
「………なるほど」
そうきたか、と、天之橋は少しだけ苦笑した。
仕事を途中で止められない自分にとって、予定していた帰宅時間が遅れるのは日常茶飯事。
それでは家の者も管理しづらいだろうとは思うのだが、そこはどうしてもルーズになってしまうのが現状である。
だが、自分の性格から言って、この使命感に燃えた可愛らしい見張り役に適当な言伝はできないだろう。
なかなか抜け目ない手だな、と思いつつ、天之橋は両手を上げて降参の意を表した。
「分かった。お手柔らかに頼むよ」
「?え、っと。それでは本日は、ご予定の変更はございますか?」
小さく首を傾げてから嬉しそうに訊いてくる彼女に、少しだけ間をおいて。
「今日は、そうだね。会社の方に廻らなければならないから……帰りは深夜になると思う」
「はい」
「このあと夜まで会議が続くから、食事は必要ない。夜食も要らないと伝えてくれ」
「はい」
「今、分かっているのはそれくらいかな。明日の日程は予定通りだし……」
「……あれ?でも、旦那様」
顎に手を当てて考えている彼に、少女はおずおずと口を挟んだ。
「そうしたら、お食事はどうされるんですか?早めに取られるとか?」
「いや。この会議はおそらく長時間続くから、そういう場合食事はあまり取らないね」
「え!?」
「時間が早すぎたり就寝前だったりで、タイミングを逃してしまうんだよ」
「で、でもっ……お食事をされないとお体に障ります!
えっと、お時間がないなら例えば、お弁当とかビスケットタイプの総合栄養食とかをお車で……っ」
そこまで言ってから、彼があの車の中で弁当を食べている姿を思い浮かべて、慌てて自分の口を塞いだ。
同じことを想像したのだろう、天之橋がくすくすと笑い出すのに、さっと顔色を変えて。
「す、すみません!失礼なことをっ」
「いや、構わないよ」
「……でも、あの。……差し出がましいですけど、やっぱり少しでも召し上がった方が……」
「君が作ってくれるかね?」
「え?」
心配そうな顔をする彼女に、天之橋は悪戯っぽく肩をすくめた。
「こういう時はどうも食べる気がしないけれど、君が私の身を案じて作ってくれるものなら話は別だ。
確か、料理は得意だと聞いたよ」
「う……」
そう言われて、思わず首を縮こまらせる。
確かに料理は嫌いではないけれども、それはあくまでも趣味レベルで。
プロである屋敷のコックなどとは、比べものにもならない。
しかも今まで食べさせてきた相手は、カレーやハンバーグを出しておけば大喜びする弟。
とても彼の期待に添うようなものを作れるとは思えなかった。
彼女の困窮を見透かしていたように、天之橋はにっこり笑って言葉を継いだ。
「まあ、無理にとは言わないよ。さて、ではそろそろ帰宅しなさい。
寄り道もいいけれど、気をつけて帰るようにね」
「……はい」
しゅんとした姿が少し可哀想だったけれど、それで多少はやり返した気になって、ドアを開けて彼女を送り出す。
あとでそれを反省することになるとは、予想もしていなかったのだが。
深夜に帰宅した自室で、いかにも時間を掛けて作ったような夜食を前に、天之橋は疲れも吹き飛ぶような苦笑をしてみせた。
「……これは、好意を蔑ろにした罰かな?」
更に続く?
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