彼女が15歳の少女らしく笑うのが、嬉しいと思う。
「こっちの棟が三年生の教室と特別教室。あちらが一年生と二年生。
君が学ぶ教室は、あそこの端になると思うよ」
春休みで人気のない廊下を少女と並んで歩きながら、天之橋は窓から見える教室を指差した。
「教室を出て中庭を越えれば、理事長室はすぐ真向かいにあるんだ。気が向けば訪ねてくれると嬉しいな」
「お仕事の邪魔をしてしまっても、ですか?」
窓に駆け寄って物珍しそうに外を見ていた少女が、いたずらっぽい瞳で振り向いた。
その明らかな変化に満足しながら、胸に手を当てて姿勢を低くする。
「勿論。仕事などいつでもできるが、君が訪ねてくれる機会などそうないだろうからね。いつでもおいで」
「そ……そんなことは」
「ああ、でも、これだけは覚えておきなさい」
「え?」
潜められた声に、少し不安げになった少女へ唇を寄せて。
至極真面目な顔をして、秘密を打ち明ける。
「中庭を通ると、職員室から丸見えだからね。授業中に来る時は、特別棟から廻った方が安全だよ?」
「じ……授業中になんか、行きません!」
もう!と頬を染めて叫ぶ彼女に、相好を崩す。
「はは、まあ、その方が賢明だろうね。特に氷室君の授業などでは命取りになるよ」
「氷室……?先生、ですか?」
「ああ、君の……」
「私がどうかしましたか?」
笑いを納めて話を続けようとしたその時、背後から聞き慣れた声がした。
天之橋はおや、と呟いて振り向き、そこに佇む数学教師を見る。
「氷室君。どうしたんだね、まだ休み中だよ?」
「存じております。新学年のクラス編成について、疑問点がありましたので資料を探しに来ただけです」
「ああ、それは丁度良かった。君の疑問の元はここにあるよ」
「………………。」
氷室は無言で彼の差し出した封筒を受け取ると、中の書類にざっと目を通した後、落ち着かない瞳で自分を見ている少女に目をやった。
視線の固さにびくりと身を震わせた彼女の代わりに、天之橋が応える。
「小沢水結くんだよ。四月から君のクラスの生徒だ。小沢くん、君の担任になる氷室先生だよ」
「え!?そんなのもう決まってるんですか!?」
「ああ、クラス編成はほとんどが二月中に決まっているからね。君の場合は多少特殊だったが……」
「でも、私が入学することになったのは今日の話でっ」
「……小沢」
驚いて話し始める少女を遮るように、氷室は彼女の名前を呼んだ。
「事情はともかく、紹介されたらまず名乗るのが礼儀ではないのか?」
「えっ」
厳しい声でそう言われ、目を見開いて教師を見返した後、少女は気付いたように慌てて頭を下げた。
「あ、あっ……ごめんなさい!あの、私、小沢水結と申します!えっと……
四月からお世話になります!よろしくお願いします!!」
体を二つ折りにして挨拶する姿には、反抗や不愉快の色は皆無で、氷室は少し表情を緩めた。
どうやら不作法な人間なのではなくて、ただ落ち着きがないだけらしい。
そう思いつつ、顔を上げた彼女に頷いてみせる。
「氷室零一だ。数学を担当している。私のクラスに入るからには、生半可な努力は認めない」
「は……はい」
「よろしい。期待している。理事長、この生徒の書類提出が遅れた訳を説明して頂けますか」
氷室がそう言うと、少女はまたびくりと揺れて同じように天之橋を見やった。
不安そうな彼女を安心させるために微笑んで、天之橋は肩をすくめる。
「別に特別な理由はないよ。推薦枠の生徒だからね、受験で願書を提出されていた訳ではないし。
住所が変わったこともあって、正確な書類が遅くなってしまった。手間をかけさせて申し訳なかったね」
「いえ……そういう事情であれば致し方ありませんが、私としても職務に差し支えますので」
「そうだね、今後は気をつけるよ」
「よろしくお願いします。資料がないと綿密な予定が立てられません」
「あの……あの、氷室、先生」
不意に横合いから掛けられた小さな声に、氷室は何気なく少女を見やって彼らしくなく狼狽えた。
爪が食い込むほど掌を握りしめて、苦しげに歪められた目が、彼を見ている。
「違うんです、私が……私が悪かったんです」
「……?」
「一度、入学を諦めて……でも、だ…理事長のお話をお聞きして、どうしても通いたくなって。
後から無理を言って、許可して頂いたんです」
「それは……」
「悪いのはこの方ではないんです。申し訳、ありません」
悲痛な表情で頭を下げられ、眉を顰めた氷室に、天之橋は小さく吹き出した。
彼女の心の動きが分かるだけに、苦笑を含んだ笑いが洩れる。
「小沢くん。別に、氷室君は私を責めている訳ではないよ」
「……え?」
「彼はただ、書類が揃わないので困った、と言っているだけだ。
こういう言い方をするのは、彼の癖でね」
「でも……でも、私の所為で、ご迷惑をかけてしまって」
その言葉で、氷室にも彼女の誤解が理解できた。
学園の理事長が、一教師に謝らなければならないほど糾弾されている。そしてそれは、自分が入学したいと無理を言ったから。そう思ったのだろう。
確かに、通常の学校では、理事長は一教師には謝らないものかもしれない。
そう考えて、氷室の口元がかすかに弛んだ。
「小沢」
俯いたままだった彼女が、呼ばれておずおずと顔を上げる。
その怯えた様子がおかしくなって、彼は彼にしては珍しく、笑顔と言っていい表情を見せた。
「恐縮することはない。理事長の言われた通りだ。
私は相手の職位によって態度を変えることはないが、今現在、理事長を責めている訳ではない」
「でも……」
「この学校に入学することを選んだ君の選択は、正しいと思う。
君が悪いことは何もない。新学期から頑張りなさい」
「は、はい!」
背筋を伸ばした返事を聞いて、氷室は一つ頷くと踵を返して職員室の方へ歩き出した。
その、背後で。
「あの氷室君が笑うとは……やはりこれも、君の魅力故、なのだろうね」
「な、何を仰るんですか!」
「ううむ、これは一大事だ。今のうちに君を誘っておかないと、私などには付き合ってもらえなくなってしまうね」
「旦那様!!」
旦那、様?
ぴたりと歩みを止めて振り返ると、少女は口に手を当てて青ざめるところだった。
「あ、ご、ごめんなさ……っ!」
そこへ、彼女の隣にいる自分の上司の声が重なる。
「ああ、大丈夫だよ。さすがに担任教師には事情を説明しておかないといけないからね。
今日にでも話すつもりだったから、問題はないよ、水結」
水結?
子供をあやすように彼女の頭を撫でて諭す姿は、自分が知っている彼に比べたら激甘で。
さっき流し見たその生徒の新住所が、そういえば記憶にある上司の住所と一致していたことも、なぜか今思い出されて。
女性が男性に対して旦那様、などと呼びかける例を一つしか思い浮かべられなかった氷室の頭の中は、天之橋に説明を受けるまで、あらぬ想像が渦を巻き続けていた。
更に続く?
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