『………ぉぃ…』
ふと聞こえる彼の声で意識の端を掴んだ。
薄く目を開けると心配げな彼の顔が覗き込んでいる。
ぴたぴたと頬に当たる指に、にわかに現実に引き戻された。
「オイっ……」
「…………ぁ…先輩……?」
「………大丈夫か?」
何のことか分からなくて首を傾げてから最後の記憶を辿る。
「………ぇ?…あ?………ひゃぁ!?」
思い出すと同時に、がばりと回りの布を掻き集めて涼しい胸元にたぐり寄せた。
「えぇっと!………すいません、私どうしてました?」
「は〜〜…良かった……どこもおかしくないか?」
「……どこもって…ええと、少しだるいですけど」
「おまえ気ィ失っててさ、ホントにどうしようかと思った〜〜…」
心底安心した顔の真咲に、タオルケットに半分埋まった彼女が顔を赤らめた。
「ご心配お掛けしました……ごめんなさい」
「いや、悪いのオレだから!……今日のオレは見当違いの八つ当たりしたレイプ魔でした。本当にゴメンナサイ」
乱れた浴衣を引っかけたままでベッドの脇に正座して項垂れる彼。
それを見て彼女がクスリと笑った。
「初めてお泊まりした時の”男は狼だと思え”っていうの、分かりました」
「あ〜〜…”オレとお父さん以外は”ってオレもだったわ…反省してます……」
「…ホントにちょっと食べられるかと思いました。でも、ちゃんと合意の上でしたし…それに、あの」
ちょいちょいと手招きされるのに応じて彼女の口元に耳を寄せた。
いやじゃなかったです。
囁かれる言葉が淫らな記憶を呼び覚まし、慌てて頭の中で因数分解を解く。
「……っっ…っと、あぶね〜……とにかくだ、ちょっとマズイ事になってんだよ」
「なんですか?」
「その〜…今、な…夜中の一時なんだよな」
「………ええぇ!?」
花火大会が終わってここへ寄ったのが確か十時前だった。
指を折る彼女に、彼が申し訳なさそうに呟く。
「……や、あんまり気持ちよくて……つい抱いたまま寝ちまってて。そんで慌てておまえ起こそうとしたら起きなくて…今に至る」
慌ててタオルケットを纏って立ち上がろうとした彼女の足がカクンと崩れる。
床に倒れ込みそうになった彼女を真咲が抱き留めた。
「うおっと!オイ大丈夫か!?」
「ごめんなさい!…あ、れ?足に力が入らなくて…」
「あ〜〜…そっか。…うっし、分かった心配すんな」
「え?……心配すんなって…」
「オレが抱いてってやる」
言われた言葉に彼女が目を丸くして大声を出した。
「ええぇ!?そっちの方がマズイんじゃ!?」
「だな。でも明日も講義あるだろ?服買って行くにも朝一じゃ店開いてねーし、痴漢オヤジの一件もあるしな。落ち着くまでオレん家に居たってことで何とか…なるかな?」
「………三時間は無理なような気が……」
「まぁ、痴漢に遭った時間と警察にいた時間水増しすりゃ一時間は……」
「……そうですね…余計な事喋らなければ痴漢の方がオオゴトですし」
「……あ、ノンキに口裏合わせてる場合じゃねーや!おまえちゃんと浴衣着ないと!って、オレが適当に服着たら着せてやるから待ってろな?」
「あ……はい」
ばたばたと彼が服を着るのをどさくさに紛れて盗み見ていた彼女が、自分の格好をはたと省みた。
大慌てで腿の辺りにかろうじて引っかかっていたショーツに足を通し、腰紐だけで止まっていた浴衣の前を合わせる。
支えてもらってどうにかおかしくない程度に着付けた後、彼に横抱きに抱え上げられ車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
「ヤーっ…べぇ……電気消えてっぞ?…寝てんのかな?」
おそるおそる彼女の家の前に車をつけた真咲が、落胆したように呟いた。
仁王立ちで待っていられるのも恐いが、寝ている所を叩き起こすのはもっと恐ろしい。
彼女の父親と初対面することになるかも知れないのがこのシチュエーションとは、今まで見たどのホラーより背中に冷や汗が流れた。
「さぁ……ウチの両親宵っ張りなので、二時三時くらいへっちゃらなんですけど…」
「…………オレ達と同じ事だったらどーする?」
自分で言って寒くなった。
夜中でも蒸し暑い八月に。
「同じことって………あ…」
首を傾げた彼女が思い当たったように顔を赤らめた。
「そーだ、電話してみ?いきなりよりはマシじゃねぇ?」
「それも考えたんですけど……」
「うん?」
「携帯持ってきてないんですよね…」
「マジで?……お〜ま〜え〜……」
ガックリとハンドルに伏せた真咲に彼女が口を尖らせた。
「だって巾着だからお財布くらいしか入んなくて!…真咲先輩、あんまり遅れることないし……使わないと思って」
「あ〜、いい。オレが悪い。…家電は?番号覚えてりゃオレの携帯使えるぞ?」
「………それが〜…最近夜中にイタ電が三回くらいあって…夜はコンセント抜いてて……」
彼女が言いにくそうにもじもじと膝の巾着袋の紐をいじる。
こんな時でも可愛いのは卑怯な気がしてくるほどだった。
彼が大きく息を吐いて、自分を奮い立たせるために明るく笑う。
少々ひきつってはいたが。
「っしゃ!ここにいてもしょーがねーな。正面突破で行くか!」
「………はい」
「……あ、もしオレが親父さんに嫌われても、別れるとかナシでお願いしますね?」
「そんなことしませんってば!」
彼が車を降りて、助手席の彼女をひょいと持ち上げた。
「あ、あの先輩?……もう一人で歩けますから……多分」
「………いいじゃん結婚式みたいで」
「え!?」
「それになー…ちょっとだけビビッてるから出来ればこのままでヨロシク」
「……はい」
「照れてる場合じゃねーって。………行くぞ?」
ドアの前に立って恐々インターホンを押して三分。
応答がないのに顔を見合わせて、彼女が財布から鍵を取り出した。
”ただいま”と小さな声で言う彼女を抱いたまま、彼が玄関のドアを静かに閉める。
真っ暗な家の中は静まり返っていた。
「……こわい」
「それはオレのセリフだって…マジで怖ぇーわ……」
「強盗とかだったらどうしよう……」
呟いて、抱かれた彼の首に彼女がしがみついた。
その時はすでに彼の目は玄関ドアの内側に貼られたメモ用紙を凝視していたが。
「…………、おまえん家のご両親ってラブラブ?」
「は?」
「…………それ」
”パパと高級ホテルのディナー&スィートデートにいってきまぁす 今晩は帰らないから真咲くん家にでもご厄介になりなさい(パパには上手く言っといてあげる)P・S携帯はちゃんと持って出なさいよ!ぷんぷん!”
「………はぁ!?……っもーお母さん何考えてんの!?」
「……ハァ〜……ってことは、今日はオレん家泊まり?」
「あ、あの……でも別にひとりでも…」
「んんー?」
「……ご厄介になります…」
「よーし、二重マル。…んじゃ着替え持って、帰るか?」
「は〜い!」
行きとは正反対の和やかな帰りの車中。
イヤじゃなかったという言葉を胸に秘め、遠回しに出された二回戦申請を彼女はやんわりお断り申し上げる。
「じゃあせめて一緒に風呂…入ろう、な?だってさ、何でも言うこと聞くんだろー?三回躓いたよな」
「え?私二回しか…」
「痴漢オヤジに触られてる時躓いた」
「あれは先輩が引っぱったからじゃないですか!」
うだうだと食い下がる真咲に、彼女はやがて大きなため息を吐き、電気を消すという条件付きで承諾した。
車はいよいよ華やいだ(主に真咲の顔が)雰囲気で家路につく。
次の日揃って欠席する事態だけは、彼女の安らかな寝顔によって回避されたのが幸いだったと思う。
おわり |