しあわせな夢を見ていた 気 がし た
「………?」
ふと目を開けると、そこは真っ暗な世界でした。
床も壁もテーブルも、すべてが濃い闇色に染まっています。
唯一、月を抱えた窓だけが、別物のようにぼんやりと浮かんでいました。
いくら欲しがっても手が届かない、空の高みに。
「……っ」
起きあがってまわりを見渡すと、彼はするりとベッドを抜け出しました。
いつの間にか寝入ってしまったしわくちゃの服のまま、いつも身につけているステッキやシルクハットも放り出したままで。
部屋を出ると、工場は暗く密やかに動いていました。
すこしだけ歩けば、通い慣れた部屋はすぐ目の前。
夜間、この辺りでは機械を稼働させないようにしているので、また痛いくらいの静けさが彼を襲います。
それに抵抗するように、彼は乱暴にドアノブを握りました。
もしも、夢だったら?
ぴた、と手が止まります。
つう、と背中を汗が伝ったのがわかりました。
もしもすべてが、夢だったら。
自分がショコラティエとして成功したのも、世界一の工場を建てたのも、みんなに愛されるお菓子を作っているのも。
そして、そのおかげで大切なたったひとりの女の子に出逢えたのも、彼女が家族として自分を受け入れてくれたのも、全部夢だとしたら。
このドアを開けて、誰もいない静かな部屋があったら一体どうすればいいのでしょう?
いえ、そんなはずはありません。
現に今、自分は工場の中にいるのですし、夕食の時の彼女の言葉もはっきりと思い出せます。
たしか、新しく作った“入れ歯にくっつかないキャラメル”をうれしそうに見ながら、『明日はこれを持って、私の家族のところへ一緒に行きましょう?』と笑っていました。きっとおじいさんやおばあさんに食べさせてあげたいのでしょう。
夜が明けたら、彼女は彼の手を取って、一緒に連れて行ってくれるはずです。
彼女の、家族のところへ。
びく、と今度は腕全体が震えました。
熱いものを触ったかのように、思わずドアノブから手が離れます。
一瞬、なにに気づいたのかわかりませんでしたが、考える前に口から呟きが漏れていました。
「シャーリーの家族は……僕だけじゃない……」
もちろん、彼にもおとうさんがいます。
今ではわりとよく行き来していて、『甘くない虫歯にならないチョコレートを作りなさい』『そんなの美味しくないじゃないか』なんて軽口も言い合えるようになりました。
おとうさんが自分を大事に思ってくれているのも知っています。
でも、本当の意味での彼の家族は、ちいさなシャーリーだけでした。
無条件で愛を注げて、注がれて、甘やかすのではなく、押しつけるのでもなく、自分を本当にわかってくれる存在。
そばにいるだけで全部が満たされるような……そんな存在は、彼にとってシャーリーただひとり。
けれど、シャーリーの家族は彼ひとりではありませんでした。
おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、もっと言えばウンパルンパだって羊だって牛だってリスだって、彼女にとっては家族です。
同じように愛を注いで、大切にして。誰がいちばんかなんて考えないくらい、彼女の愛は大きいのです。
だから、彼はぜったいに、彼女の『たったひとり』にはなれないのです。
「……………」
彼は目を伏せながら、そっとドアを開けました。
自分の部屋と同じ月明かりの中に、彼女の気配がしました。
ブランケットをぎゅっと抱きしめて、シャーリーはよく眠っています。
「……シャーリー」
起こそうと思っていたわけではありません。
けれど、こんなにそばにいるのに自分に気づいてくれない彼女が不安になって、彼は思わずその肩を揺らしました。
「シャーリー!」
「……ん、…ウィリー…?」
けだるそうな呟きとともに、ねぼけまなこが彼を見ます。
かと思うと、またすぐ瞳を閉じて、彼女はすこしだけ眉をしかめました。
「…ねてるときはおこさないって……いったじゃなーい…」
「ご、ごめんよ、でも」
「もー…またなにか思いついたの……?ねむい……イヤだよ……」
「!!!」
その瞬間、彼は頭を殴られたかのようなショックを受けました。
追い打ちをかけるように、彼女は自分から離れて、もそもそとベッドの向こうへ行ってしまいます。
嫌だと言われました。
伸ばした手を避けられました。
もう終わりです。一度見限られたら、二度目はありません。
だってシャーリーには、ほかに大切なものがたくさんあるのですから、自分ひとりくらいいなくても何ともないはずです。
もしかしたら、さみしい、とさえ思ってくれないかもしれません。
ぐら、と視界がゆれて、思わずベッドに手をつきました。
起きたことがあんまりショックすぎて、うまく理解できません。
これから自分はどうしていけばいいんだろう…?とぼんやり考えていると、ふいに、かたかたと震えている手がぐいと引かれました。
「う、わ!?」
思いがけない力で引っぱられて、彼はベッドの空いたスペースに頭からつっこみました。
思いきり顔を打ちつけて、ちかちか星が見えます。
鼻を押さえてうずくまる彼に気づきもせず、ねぼけたシャーリーは目をつむったまま、かぶっていたブランケットを彼に分け与えました。
「夜は…ねるものよ、ウィリー……」
「シ、シャーリー?」
「発明もいいけど……体こわしちゃうし……こんど朝食にちこくした…ら……ばつとして…ごはんぬきに…す……」
もぐもぐと半分口の中でつぶやきながら、シャーリーはまたすうっと眠りに落ちていきました。
彼の頭を、ブランケットの代わりに抱きしめたまま。
「……………」
しばらく、しつこいくらいに目をぱちぱちさせるしかできなかった彼は、すぐ目の前に流れる栗色の髪にゆっくりと手を伸ばしました。
きゅ、とそれを握ると、つんと髪を引かれた彼女が小さくみじろいで、ますます腕を強くします。
きゅうくつで息苦しくなりましたが、彼は半分笑って半分泣きそうなへんな表情をして、視線だけで彼女を見上げました。
シャーリーは、僕がいなくても生きていける。
でも僕は、彼女がいなければ生きていけない。
彼女はもう、起きる気配はありません。何も知らず、幸せそうに眠っています。
そんなこと、初めからわかってた。
そんなふうに他人にこころを預けるのがいやだったから、今までだいじなひとを作らなかった。
だれかの一言で、自分のすべてが壊れてしまうのがこわい。
だれかの行動が、自分のすべてを支配するのがこわい。
自分のこころを預けずに、相手が自分だけを好きでいてくれたらと、いつもそんな夢ばかり見ていた。
彼は、幼い子供のように彼女を抱きしめ、目を閉じました。
でも、しあわせなだけの夢はもう見ない。
苦しくて切なくて、悩みも憂鬱もたくさんある。明日どうなるのかもわからない。
それでも、彼女はたしかにここにいる。
あたたかい光で、僕の世界を照らしてくれる。
彼女がずっとそばにいてくれるように、全てをかけて彼女を愛しむこと。
それが、僕の選んだ たったひとつの現実。
END. |