「サク、ラ?サクラというのは、花の名前ですか?」
茶器を手元に引き寄せながら、ファラミアが小さく首を傾げた。
「そう。俺の国の国花で……あれ、違うっけ?まあとにかく国の象徴なんだよ。ゴンドールで言うと白の木みたいな」
「あなたの故国の……」
「うん、色は違うけど、ほんと白の木の花みたいなイメージかな。小さくて可憐でひらひらしてんの」
「白の木の花?……見たことがあるのですか?」
「い、いや、イメージだよイメージ。そんで、満開になると薄紅色の天幕みたいになんの。見ごたえあるんだぜー!
日本じゃ春になると皆こぞって花見に行くんだ。たった二週間かそこらしか咲かない花なのに、仕事そっちのけでさー」
「それは……公務が滞って困りますね」
苦笑しながら返すと、咲弥もくくっと肩を揺らして笑う。
きっかけは、勉強の合間、お茶会での雑談だった。
先日の調査の礼を告げると、ファラミアは正当な権利なのだから謝意は必要ないと生真面目に答えた後、少し言いにくそうに質問したのだ。
「あなたは、故郷が恋しくはないのですか」
「……………」
ボロミアといいファラミアといい、自分はそんなに脳天気に見えるのだろうか。示し合わせて同じことを問うような人間ではないから、二人とも単に訊かずにはおれないだけなのだろうが、そうすると訊かれた自分がいかにも間抜けだ。
半ば本気で悩みながら『恋しくなくはない』と繰り返すと、ファラミアはほっとした顔で頷いた。
「そうですよね。妙なことを訊いてしまってすみません」
「いや、謝ることじゃないよ。まあ正直、今すぐ帰りたい訳ではないんだ、まだ行ってみたい所もいっぱいあるし……
確かにこんなじゃ、ファラミアやボロミアから見たら異様に見えるよなあ」
「そ、そんなことは」
「やー、ボロミアなんか驚きを隠せませんって顔してたし。親兄弟も友達も置いてきたのに、薄情だよなー俺」
「サクヤ!」
きゅ、と腕が押さえられて、視線をやれば怒ったような瞳とかち合う。
ああ、
怒った顔も美人だなんて反則だ。毎日思うけど見ごたえがありすぎる。こんなことを言ったら口を利いてくれなくなるかもしれないが、でも、心根も性格も顔も美人な上に仕事も勉学も有能で、部下に好かれてて、実質地位的にはお姫様…じゃなくて王子様、ってどんだけ鉄板なんだよ!しかも本人はその鉄板さに気づいてないとかありえねぇー!
「そんなことを言ってはいけません」
「……へ?」
こんなのを間近で見る機会なんか絶対ない、これがあるから帰りたくねーのかも、と馬鹿なことを考えている咲弥を、諌める声が現実に引き戻した。
「たとえ冗談でも、です。ボロミアも私も、あなたを非難したいわけではないのですから」
「ああ、分かってるって。俺のこと心配してくれたんだろ?知ってるよ」
「……ならばよいのですが」
こほん、と小さく咳払いをして、ファラミアは掴んだ手を離す。
咲弥は自由になった手で、くるりと羽根ペンを回した。
「でも、見たい物もあるぜ?時期的に今頃は桜が咲いてるんだよなあ。物心ついてから、花見だけは逃したことねーのに」
その口調がいかにも残念そうだったので、ファラミアはそれはどんなものかと問い返した、というわけだ。
桜の説明をしながら紙の端に日本語を書くと、興味津々の目がそれを追い、自分も同じようにペンを動かす。書いているのを見るだけで、ほとんどの単語を覚えていく彼が少しだけうらやましい。
そこに大きめに書かれた『桜』という文字は、今までに見た漢字の中でも複雑な方ではなかったが、どこか素朴で暖かみがあるような気がした。
「これでサクラ、と読むのですか?」
「そう。昔はもっと難しい字だったんだけど、こっちの方が俺は好きだなー。俺の名前もここから来てるんだってさ」
「サクヤの?そういえば、読み方はよく似ていますね」
「音もそうだけど、『咲』は花が咲くこと、『弥』は限りなく多く、いつまでもずっと、って意味なんだ。
うちの母親がほんっと桜大好きでさあ。実家にいた頃は、春になると何回も何回も花見に連れてかれてたよ。
昔はいい加減しつこいと思ってたけど、今年は見られないとなるとちょっと寂しい気もするな」
ふう、と軽いため息をつく咲弥に、また苦笑が浮かぶ。
ファラミアにとっては、花を愛でるよりも国や家族と離れる方が遙かに重要だけれども、もうそれには触れないことにした。
「薄紅色の、小さな花、ですか。きれいでしょうね」
「そりゃあもう。散る時がまた潔くて、風が吹くとピンク色の桜吹雪になんの。あーちくしょ、ファラミアにも見せたいのに!」
「私もぜひ見たいです。機会があれば見せてくださいね」
「え?機会、って」
きょとんとした顔を上げると、ファラミアは机に肘をついて、柔らかく目を細めた。
「薄情などではありませんよ。そうやって話している時のあなたは、ここでは見せたことのない表情をしていますから」
「……!」
「私も、あなたがそうやって愛しむあなたの国を見てみたい。きっとゴンドールと同じように好きになるはずです」
春に桜、夏に向日葵、秋は金木犀、冬は椿。
四季折々の花が所狭しと咲きこぼれる、緑豊かな国。こちらに来るまで当たり前だと思っていたそれらが、瞳の裏に懐かしく浮かぶ。
本当に強がっているわけではないし、絶対帰れるとも絶対帰れないとも思ってはいない。けれども、無事に帰り着くまであの花が見られないのも事実で。
咲弥はしばらく黙ってから、殊更に明るく言った。
「分かった、じゃあ約束な。もし俺の国に来たら一緒に桜を見に行くこと。そん時はとびっきりの穴場教えてやる。
それから……いつか白の花が咲いたら、一緒に見ること」
はっとして、ファラミアは目を見開く。
その二つが、同じくらい実現し難い夢であることを知っている。白の木はゴンドール王家と繋がっている木。王なくしては花は咲かない、なのに、この国に王は絶えて久しい。
けれど、夢であるからこそ希望が生まれるのだ。
無頓着な自分を心配して元気づけてくれた二人に対して、できるなら、自分も同じものを返したかった。
「約束だ」
こつ、と拳を小突き合わせると、ファラミアはその手をじっと見つめて。
そして極上の笑みを浮かべ、うれしそうに頷いた。
つづく
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