ぶらぶらと別に急ぐでもない足取りで、咲弥は明るい回廊を歩いていた。
どこもかしこも石でできているこの城は、どれだけ眺めても飽きることがない。元の世界ではとうに失われた造形技術、見知らぬ鉱物、力を秘めた紋章。そんなものがそこここに在るような気がして、いつまでたっても周りを見回す癖は直らなかった。
「……俺、遺跡とか歴史的建造物にはぜんぜん興味なかったのになぁ」
呟いてからふと、立ち止まる。
ここは史所ではない。現存していることが重要な考古学の対象ではなく、人々が集まり生活する場所だ。
では外国の城へ行けばこんな気分になるだろうか、と考えて、咲弥はやっぱり首を振った。
元いた世界、あの人間が統治する世界では、どれだけ遠くへ行っても自分の国と繋がっている。コンピュータやファーストフードがない国は、おそらく存在しないだろう。
それが悪いわけではもちろんないけれど、だからこそ、こんな『異世界』で物を見て回らない訳にはいかなかった。
「おっとと、いかんいかん。これ以上遅くなったら食いっぱぐれる」
気づいたようにそう言って、咲弥は少し早足で回廊の奥へ歩き始めた。
のんびり見物しているように見えて、実はボロミアに呼ばれて彼の部屋へ向かっているところだ。
ただその招聘は昼頃に出されたもので、居所が定まらない咲弥を捜して城中を奔走した小間使いは、疲れた顔で総大将の言葉を告げた。
突然来いと言われても、咲弥にだってやることはたくさんある。それを分かっていて急がないと言伝したのであれば、いつ行ってもいいのだろう。
そう考えてきっちり予定を終わらせてから足を向けた咲弥だったが、既に夕食を危惧するような時間だったので、目的地に着いたときには自分よりよほど忙しい相手の方が不在だった。
「よっ、ご苦労さま。ボロミアいる?」
部屋の前で番をしている顔見知りの歩哨に声を掛けると、彼は表情を曇らせて頭を下げた。
「申し訳ありません。先程急用が入りまして、お出になられました。サクヤ様に言付けを預かっています」
「言付け?」
「はい。少々席を外すので、中で待っていてほしいと……」
「なんだよ、人を呼びつけといていないとかありえねーなぁ」
自分の悠長さを棚に上げた発言とは裏腹に、咲弥が笑って肩を竦めたので、兵士は安堵して扉を開いた。
どうぞ、と促され、少しだけ考える。
「……いや、やっぱいい」
「は?」
「だって、持ち主のいない部屋に入るのもなんか嫌じゃん?」
「は、はあ。しかし、それほど時間がかかるとは思えませんので、お部屋にお戻りいただくのは手間かと」
「いや、ここで待つよ」
そう言って、咲弥は彼が答える前に隣に立ち、壁を背にしてしゃがみ込んだ。
市井の子供のようなその仕草に戸惑いながら、兵士は斜め横に視線を落とす。
「あの……ここで、ですか?そんなところにお座りになって?」
「うん。話してても怒られない?」
「多少ならば問題ないと思いますが……しかし、私はサクヤ様を楽しませるようなお話など、とても」
「いーのいーの。んっと、あんたはどこの部隊にいるの?ボロミアの直属?」
「い、いえ。私は本来ならば近衛なのですが、ボロミア様が城内にいる場合は身辺に配されることになっておりまして」
「ふんふん」
「その場合、近衛にはボロミア様の部隊から何名かが入れ替わることになります」
「ん、なんで?そのままの方がめんどくなくね?」
「あちらの兵は、戦闘を得意とする者が多いですから。城内では日々の情報に精通している者が必要です」
「ああ、なるほど。……執政候はほんとにボロミアが大事なんだな、自分の守りから人を割くなんて」
「ええ勿論。私共も同じです、ボロミア様はゴンドールになくてはならない方ですから」
「だろーなあ。あの完璧な所がちょっとムカつきすらするよな!性格は別に完璧でもないのに!」
「え、ええと……」
返答に困る兵士を見ながら、咲弥はくくっと笑いを漏らした。
◇ ◇ ◇
ボロミアが部屋に戻った時、彼らの話はまだ続いていた。
続いていた、というか。むしろ弾んでいたというか。
「えー!それってあの一件も絡んでくるんじゃねえの?あの、東からハラドが来たっていう」
「まさに仰る通りです。我らの戦いは遙か古より続いておりますが、今までは常にゴンドールが優位でした。
ここに来てモルドールというより大きな敵が現れたのを、彼奴らは利用しようとしているのでしょう」
「でも、ハラドだって人間だろ?そう簡単に化け物と手を組んだら、返す刃で自分たちも滅ぼされるの見えてんじゃん?」
「そ、それはそうですが……このまま行けば結局はゴンドールに滅ぼされると、そう思っているのかもしれません」
「そりゃ先走ってんなあ。モルドールの脅威さえなくなりゃ、ハラドとの関係だって改善できるかもしんねーのに」
「改善、ですか?彼奴らと?……そんなこと、考えたこともありません」
「まーそりゃそーだろ。でも、モルドールと比べたらまだそっちがましだと思う」
「そう……ですね。確かに人としての常識が通じる分、ハラドの方がましではありますが……」
「そうそう。どうせ手を組むならこっちに来てくれたっていいのに、なんで向こう行っちゃうかねえ」
(……一体、何の話で盛り上がっているんだ)
雑談と言うにはあまりに殺伐とした内容に、ボロミアは眉を顰めて足を止めた。
兵士同士でも、なかなかこんなあからさまな話はしない。咲弥はこちらの情勢に詳しくないと皆が知っているので、いちいち説明していると明け透けになってしまうのだろう。
そんな話は、何の関係もない咲弥には聞かせたくないし言わせたくない。私人としてそう思う反面、何も知らない子供のようだった咲弥が着実に状況を把握し知略を身につけているのが、頼もしくもある。
戦いに出ると決めてから、咲弥が様々なことを学んでいるのは知っていた。自分では元々勤勉な性質ではないと言っていたが、剣の稽古に読み書き、割り当てられた仕事、合間に兵士や民と親交を深めるところまで、その行動は一分の隙もなく合理的だった。
軍務に就くまでの効率の良さは、指導者としては重視すべきところだ。闇は日に日に深まる様相を見せている、いくら素質があっても、『その時』に使い物にならなければ意味がないのだから。
けれど。
このまま行くと、咲弥は遠からず実戦を経験することになる。
勿論怪我などさせるつもりはないが、戦なのだから何が起こるか分からない。たとえ自分が傷つかなくても人を傷つけてしまえば、心理的負担も小さくはないだろう。
戦争のない自分の国では、人を殺した人間は犯罪者なのだ、と語った言葉をボロミアは思い出した。そして、この世界は嫌いじゃないという言葉も。他人の血に塗れた弟に触れて笑ったことも。
「……………。」
いくら考えても、ボロミアには咲弥の心中が読めなかった。
自分の国で禁忌とされていることを、何故志願してまでやろうとするのか。
家族の元へ帰れる目処もつかないのに、何故あのように笑っていられるのか。
この世界のことは本で読んだだけだと言っていたのに、時折起こったことの深部まで見透かされている気がする。そのくせ悪意や打算はまるでなく、こちらに都合のよいようにしか行動しない。
親しい者にもそっけない者にも分け隔てせず、民のことを気にかけて惜しげもなく知識を与え、また与えられ、誤解を恐れずに進言し……そしていつのまにか、人の輪の中に入っている。
これでは、まるで
「まるで、ずっと昔からここで暮らしている者のようではないか」
初めからゴンドールの民であったかのように。
先日、元の世界へ帰ったらという話を聞いた時の違和感の原因は、それだった。他に故国があり、元の生活がある異邦者。分かっているはずなのに、いつの間にか咲弥を自国民と同じように考えていた部分が確かにある。
だからこそ、いつか元の世界に帰るという当たり前の前提に引っかかりを感じたのだ。
「……妙な話だ。そもそも最初から、あいつはこの国に干渉しないと明言していたのに」
面倒を見る代わりに情報を提供しろ、と言ったのは自分だった。そして、故郷に帰るための手段としてゴンドールに力を貸せと言ったのも。
だが、咲弥のしていることは、どう考えても自己の利益のためではないように思われた。意識してそうしているかは分からないが、この国のために出来ることを探している様に見えたのだ今の自分と同じように。
ボロミアが考え込んでいる間にも話は弾み、様々な意見が交わされている。
咲弥の話は、ところどころ子供のように荒唐無稽な見解が混じるものの、それを正される度にそういうものなのだと学んでいるようだ。自分の常識とこちらの常識を摺り合わせようとしているのが、ボロミアにはよく分かった。
こんなことを毎日やっているのかと半ば呆れながらようやく歩みを進めると、気づいた歩哨が背筋を伸ばして直立する。
それを見て、咲弥は尻をはたきながら立ち上がった。
「遅っせぇよ、ボロミア。いつまで待たせんだ」
「すまん、予定が狂った。余程退屈しているかと思ったが……その心配はなかったようだな」
ちらり、と目をやると、兵士は緊張した面持ちで正面を見ている。
その間に立ち塞がるように、咲弥は前に出て両脇に手を当てた。
「まあな。ほんとだったら今頃怒って部屋に帰ってるとこだ。あんたの代わりに相手してくれたんだから、礼言っとけ」
「そうだな。不在を取り繕ってくれたことに感謝する」
「な、何を仰います!ボロミア様、そのようなことを!」
あわあわと狼狽える兵に頬を弛めながら、ボロミアは咲弥を促して部屋に入った。
◇ ◇ ◇
「これを持って行け」
自室に入り椅子に腰を下ろすと、ボロミアは徐に目の前を示し、満足そうな笑みを浮かべた。
「へ?これ…って、なんだコレ?」
「報告書だ」
そこに置かれた机いっぱいの書簡や書類に、今運んできた手持ちを加えながら言う。
それは、国の内外から寄せられた記録の数々だった。
咲弥が現れた日前後に各地で起きた出来事や事件、兆候や先触れ、長老といわれる者達の予感や虫の知らせまで。
手がかりになりそうなものは全て事細かに集めたのだと、ボロミアは何でもないように言ってのけた。
「……は?まさか、これ全部!??」
「ああ。兵に巡回させて順次聞き取りをさせた。集めるのにかなりの時間を食ってしまったが……読めるか?」
「え、ええと」
その言葉に慌てて何枚かを見直し、文字を追ってから、咲弥は自信なさそうに頷いた。
「うーん、たぶん。なんとか読めると思う。でもこれ、ほんとに全部集めたのか?ついでとかじゃなくて?」
「そういう条件だっただろう。私は約束したことは守る」
「や、でも……いくらなんでも、ここまでしてくれるとは思ってなかった。……ありがとな」
「……いや、私は部下に命じただけだ。内容をまとめたのはファラミアだから、礼ならあいつに言えばいい」
柄にもなく神妙な礼に少しきまりが悪くなり、ボロミアは視線を逸らしながら答える。
だが、咲弥はざっくりとそれを切り捨てた。
「嘘つけ」
「……なんだと?」
「これとかこれはファラミアの字だけど、こっちのはどう見てもボロミアの字じゃん。あんた、総大将がこんな雑役すんなよ」
「筆跡の違いまで分かるようになったのか!?」
驚いて目を剥いたボロミアに、咲弥はおかしそうに首を竦めた。
「違いまでっつーか、違いは分かるってこと。内容を理解しなくても字体は区別つくだろ」
「そ、そういうものか?」
「うん。特にボロミアの字は特徴あるからな。一度見たら忘れねーよ」
くくく、と更に笑うと、彼はすぐにその意味を理解したらしく仏頂面を作った。
全体的に文より武の方に大分傾いている彼は、筆跡の美しさではファラミアに遠く及ばない。
元より、文字など戦場で意図を伝えることができればいいと思っているので、そこに芸術性を見出すことを最初から放棄している感がある。
自分では気にしていなくても、揶揄されたことで一瞬むっとしたボロミアだったが、続く言葉で思わずまじまじと咲弥を見返した。
「ほんと、嬉しいよ。あんたいーやつだな」
その言葉があまりにも素直な感謝に溢れていたので、意外に思う。
別に咲弥が恩知らずな人間だと思っているわけではないし、調査の手間を考えれば感謝されて当然なのかもしれないが、なんとなく語感にずれを感じた。
そう『調査結果はどうあれ気持ちが嬉しい』と、言われたような気がしたのだ。
その印象を裏付けるように、咲弥は表情を引き締めて言った。
「でも、大規模に兵士の手を割くなんてこれきりだぜ。こんなことに無駄な人員使ってる場合じゃねえだろ。
そんな余裕があったら、東でも北でも警戒しなきゃなんねー場所はいっぱいあるんだし」
無駄、という言葉に、思わず苦笑が浮かぶ。
ゴンドールには無駄でも、咲弥自身にとってはそうではないだろうに。本当にこいつはどちらの立場のつもりなのだ。
それに気づかず、咲弥は書簡の下に広げられていた地図を覗き込み、考えるように口元に手を当てた。
「この前のハラドの件もあるし、南もきな臭いって聞いてる。多少無理してもポロスに人を送った方がいいんじゃねえか?
あそこに拠点を築かれたらやっかいだぜ。潰すのにレンジャーを向けたら、北の守りが手薄になるんだろ」
「……そうだな」
「ファラミアの部隊なら負けることは考えねーけど、徹底抗戦で来られたら時間を稼がれるかもしれない。
もしハラドとモルドールが密約を結んでたら、その機を外したりはしない。挟撃されたら一気に崩れるぜ?そうなる前に」
「おまえは不吉な予見を躊躇わんのだな。それはおまえの考えか?」
わざと厳しい視線で言葉を遮ると、咲弥は地図から顔を上げて、上目遣いに彼を見た。
予見、という言葉に含みを感じはしたが、そう聞かれることは予測の範囲内だったので、なんなく返答を返す。
「俺の意見なわけねーじゃん。ポロスに行ったことのある奴から状況を聞いたし、密約については皆不安がってる。
それに、不吉な話じゃなきゃあんたの耳に入れる必要なんてねーだろうがよ。言ってる意味が分かんねえ」
「……………」
「とりあえず早急にポロスに斥候を出して、不穏な動きがあれば先手を取るべきだろ。
できれば、半日とか一晩で決着をつけた方がいい。万一の場合は西の兵を動かす手配をしときゃいいし」
「西?アムロスではなく、ということか?……いや、しかし」
「大丈夫、ローハンはそうそう崩れねえよ。上はあそこを予備兵力程度に考えてるかもしれねーけど、下は分かってる。
俺よりあんたの方が知ってんだろ、セオデン王とセオドレドとエオメルがどれだけ頼りになるか」
「……それはそうだが……しかし……」
「まー色々面倒があんだろうけど、そこは緊急措置で押しちゃえよ。戦勝報告と一緒にすりゃ許されるだろ、あんたなら」
「……………」
ふむ、と一声唸って、ボロミアは自分も地図に目を落とした。
確かに、咲弥の言っていることは理に適っている。どれだけ兵士から話を聞いたのか知らないが、国境の現状や我が軍の内情まで考慮すれば、その案は良計と言えるだろう。
しかし、上に端的に言えば父に了解を取らず行動し、終わった後で戦果と自分への信頼でごまかせとは、なかなか大胆な策を弄するものだ。
部外者や一般の兵には間違っても進言できまい、と考えると、笑いが漏れた。
自分にそれを言ってきたことにではなく、兵達からそんな本音を引き出したことに対する、それは賞賛の笑みだった。
「おまえの……いや、皆の意見は分かった。早急に検討しよう」
「おーよ、よろしく。んじゃ俺部屋に戻るわ。これサンキューな〜」
「待て」
満足げに笑い返した咲弥が、紙の束を抱えて部屋を出て行こうとしたので、ボロミアは思わずそれを引き止めた。
もしや今ならば、ずっと聞けなかったことが聞けるかもしれないと思ったから。
「……前々から、聞きたかったのだが」
「ん?」
「おまえは何故、そうなのだ?」
抽象的な問いに、咲弥の顔がますます怪訝そうに顰められる。
問い返される前に、ボロミアは言葉を選びつつ言い直した。
「おまえは、平和に暮らしていた自分の世界から、ある日突然前触れもなくここへ飛ばされたといった。
それまでこの世界のことは、知ってはいても訪れるとは思っていなかったのだろう」
「そりゃそーだろ。あんただって自分が別世界に行くかも、とか考えたことねーだろ?」
「なのに何故、そのように飄々としていられるのだ?家族や友人や、元の世界が恋しくはないのか?」
そう訊かれて、咲弥はうーんと考え込んだ。
それは、答えが分かってはいるけれどもどうやって表現しようか悩んでいるように見えた。
「んー、えっとさ。繰り返すけど、こういうのってめったにないと思うわけ」
「……?」
「俺が飛ばされたんだから絶対ない訳じゃないだろうけど、他の人がぽこぽこ同じ目に遭ってるとは考えにくいだろ」
「それはそうだろう。おまえのような素性の者など、聞いたことがない」
「じゃ、いいじゃん」
あまりにあっさりした答えに、目を瞠る。
「家族や友達がこんな目に遭ってたら、俺だって心配したけど。俺が遭ってんだから俺が心配することないだろ?」
「」
「まあ俺だって全然平気ってわけじゃないけど、親の庇護下にいる歳でもないしさ〜。
俺がいなけりゃ生きてけねえ被保護者もいないし、世間を揺るがすような地位にもついてない。困ることないだろ」
普通の口調で続けるその様子は、強がっている素振りは全くなかった。
ボロミアは狼狽した顔を隠さず、重ねて問うた。
「……おまえ、もしかして元の世界が嫌だったのか?家や友人が嫌で、逃げたいと思っていたとか?」
「なんでそうなんだよ!そんなわけねーだろ!」
「そうなるだろう、おまえの話を聞いていれば。周りがどうじゃない、おまえが平気なのかと聞いているのだが」
「だから、平気だって言ってんじゃん。いや平気じゃねーけど」
「何故だ」
「あー何故何故聞くな!自分だけを基準に物を考えんなよ、あんた人の上に立つ人間だろーが!
世の中いろいろなんだよ、あんたみたいに『守らなきゃならない絶対のもの』がある奴ばっかじゃないわけ。
俺なんかだと、どこ行ったってやることは同じなんだよ。仕事して食って生活して身を守る、そんだけ」
「おまえ……怖いものはないのか……」
思わずそう言うと、咲弥は面倒くさそうに顔をしかめた。
「うるせーなー。そんなもん、あるに決まってんだろ」
「そうは思えんぞ。例えば、なんだ?」
「えーと、あれだよ。あ、俺甘いもんないと生きていけねーな。お菓子ないとだめ」
「……………」
「あと人がいないと駄目。他人と意思の疎通ができないと生きてる意味ねーから。
ほんっと、ここがジュラ紀とかモルドールとかでなくてよかったよ。そんなとこ飛ばされてたら死んでたぞ」
「……命があればそれだけで、なにがしか意味はあるだろう」
「ああ、戦争してたらそう思うかもね。気に触った?」
「いや……そういう訳ではないが……」
「でも、できることも守るものも居るとこもないなら、生きてても死んでもおんなじだろ」
「……………」
けろりとそんなことを言う咲弥を、ボロミアは唖然として見返した。
そんなことを言う人間は、自分の周りには今まで一人もいなかった。命よりも故郷よりも家族よりも仲間よりも大事なものが、この者の中にはあるのだろうか。
それとも、大事なものなど何もないのだろうか。そんな人間がいるのか?本当に?
分からない。
「なあ、もーいーだろ。俺まだメシ食ってねえんだよ。食いっぱぐれるから行くぜー?」
「……あ、ああ」
たとえ時間に遅れても、賓客である身で食事ができない訳はないのに、咲弥はそう言って踵を返す。
官舎で兵士と共に食事をしている、という部下の報告は正しいのだろう。
動揺から立ち直ったわけではなかったが、何故かこのまま行かせてしまうのは間違っているように思えて、ボロミアは辛うじてその背に声を掛けた。
「ゴンドールは、今、暗黒の脅威に晒されている」
「ん?」
咲弥はもう一度足を止め、振り返る。
「我が国だけでなく、世界全体が少しずつ衰退している。状況は少なくとも良くはなっていない。戦も絶えない。
この状況でこんなことを言うのは、寧ろ差し出がましいかもしれんが……だが敢えて言っておく」
「??」
すっと息をして、ボロミアはまっすぐに咲弥を見つめた。
「我々は、おまえを他人だとは思っていない。ファラミアもエルラドもイルゼも、それから他の者たちも同じだ。
もし、帰る方法が見つかっても……見つからなくても。おまえさえよければ、いつまでもここにいて構わんのだ」
「!」
「今まで歩んできた過去や今後の進退に関係なく、おまえはこれからもゴンドールの国民として扱われるだろう。
何があってもそれだけは覚えておけ、サクヤ」
「…………」
今度は咲弥が目を見開く番だった。
まさかそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかったから。思いがけず気安い仲になったとはいえ、ゴンドールの総大将で次期統治者である彼の言葉は、決して軽いものではないと知っている。
言うなればそれは、国籍を得て民と同等の権利を持つのを許されたということだ。ついこの間現れた客員扱いの傭兵、しかも一度も戦に出たことのない人間に下賜されるような栄誉ではない。
なのに。
「……うん」
咲弥はゆっくりと顔を俯け、ボロミアに聞こえないように小さく唇を動かした。
万が一にも、考えていることを見透かされてしまわないように。
「うん。分かってる。あんたは……あんたたちはそうなんだって、知ってる」
余所者を警戒はしても、困っていれば受け入れてくれる騎士の国。
正直、その申し出はとても嬉しかった。ここの人たちは好きだったし、ああは言っても帰る方法なんかないかもしれないと思うと、心に風が吹くことも事実だったから。
だからといって、いつまでもゴンドールに留まるなんてできるわけがないけれど。
このまま、帰れないままに指輪戦争が始まれば、きっとここにはいられなくなる。
自分の記憶は、悪の勢力から見れば指輪と同じような力を持っているのだろうし、そもそも指輪の存在がバレてしまえばこちらに勝ち目はなくなってしまう。
それを知られないために、最後の希望のために、すべての善なる人々は多大なる犠牲を払うのだから。
そして、目の前でじっと答えを待っているこの人も指輪のために命を落としてしまうのだから。
あまり実感のなかった知識が一気に現実味を帯びてきそうになり、咲弥は頭を振ってそれを追い出した。
今はまだ、そんなことを考える時期ではない。まだ指輪は見出されず、世界は危ういながらも安定して存在している。今から憂いても仕方ない。
今の自分にできるのは、予言者としてではなく一人の人間としてここに在ること。
ただ、それだけ。
「ありがと、ボロミア。俺もこの国の人たちが好きだし、大事だよ。その言葉、ありがたく覚えとく」
「……そうか」
ボロミアはようやく安堵の表情を浮かべて、ぽん、とその肩を叩いた。
つづく
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