ぱちぱちと弾ける音が聞こえてきそうなほど、数多の星々が瞬いている。
昼間見えていた薄雲はどうやら彼方に流されたようだ。そこには一面の闇と光が広がっていて、時間すら忘れてしまいそうなほど美しかった。
城壁にもたれ物見窓に頭を預けて、咲弥はじっと空を見上げていた。
この世界にも夜があり、星がある。月もあるし太陽もある。
そういう世界として作り出されたのだから当たり前といえば当たり前だけれど、それでも、突き詰めて考えると不思議に思う。
地平線はきちんと湾曲し、物は遠ざかるに従い地に沈んで見えなくなる。ということは、ここでも地球は丸いのだ。
確か、昔は平板だったのに、人間が神の怒りを買って至福の国へ行けないようにされたんだっけ?
世界が象やら亀の上に乗っている、というのは咲弥の世界にもあった寓話だが、ここではそれが現実なのだ。そもそも世界がまだ平たい時を知っている者が、今この時も生きているのだから。
エルフは不死、というのも不思議だった。物語で読んでいた時は気にもしなかったが、実際同じ世界にいるとなると、いろいろ気になってくる。
不死ということは、何千年何万年の間にそれこそ砂の数ほど人口が増えてもおかしくないのに、中つ国にいるエルフは明らかに人間より数が少ない。
彼らが死して赴く、なんとかいう場所にしたって、この何万年の間に死んだエルフでひしめきあっているだろう。そこはそんなにキャパシティの広い場所なのか、それとも魂だけで行くからスペースは関係ないのか?
でもそうすると、グロールフィンデルのように甦って中つ国に還ってきた時、体はどうやって調達するんだろう。まさかどこかから湧いて出るとか?
質量保存の法則に反するな、と考えてからそれがおかしくなって、咲弥はくくっと肩を揺らした。
こんな思考に意味がないことは分かっている。もしエルフに人口増加や復活の謎を聞いても、笑われるくらいがオチだろう。
そういうことを論理的に追求したいわけではなくて、今の咲弥は、ただ単に考えていたいだけだった。
誰かの頭の中で作られたと思っていたこの世界が、本当はどうなっているのかを。
今日、咲弥は初めて、今この時が現実であるような気分になったのだ。
今まではどちらかというと、夢を見ているような感じだった。冒険をして、危難を乗り越えて、時が来ればハッピーエンドで終わる幻を。
けれど昼間の出来事は、これがただのおとぎ話ではないことをありありと見せつけた。
暗黒の影や血を見たからではない。
ファラミアのように穏やかで誠実な人間が、人を殺めたからでもない。
そのような自分のイメージと違うものを見せられても、相手に対する嫌悪を感じなかったそれがこの世界の理なのだと素直に納得できたことが、咲弥の主観的な現実だった。
もしこれが幻なのだとしたら、きっと、自分もその幻の中にいるのだ。それなら現実と変わらないではないか?
「あー。なんか哲学っぽくなってきたなぁ」
難しく考えるとどこまでも行けそうだったので、考えるのはやめにして目を閉じる。
途端にはっきりと聞こえてくる、遠い馬の嘶き。夜行性の鳥たちの羽音やさえずり。木々が奏でる葉擦れ。草原を渡る風。
この世界は、響く音色まで優美だった。
「風邪を、ひきますよ」
しばらくそうしていると、咲弥の楽しんでいる音の世界を壊さない声が、正面から近づいてきた。
少し冷えた膝に布が掛けられる。見て確認しなくても、それが彼のマントだということは分かった。
「大丈夫。でもさんきゅ」
「ここは風が直接当たる所ではありませんが、それでもあまり長居をするのはよくありません」
「分かってる、ちょっとじっくり考え事をしたかったんだ」
仰向いたままでそう言うと、自分の前まで来た人物が、ほんの少し身じろいだ気配がした。
きっとまた、あんな切ない瞳をしているのだろう。彼の兄が気遣っていた所から見ると、彼はいつもあんな風に自分を責めるのだ。自分がどう思われたかではなく、相手にどう思わせてしまったかを悔いて。
今だってほら。
「……サクヤ……昼間は、すみません。あのようなものに縁のないあなたに、見苦しいところを見せてしまって」
予想通りの台詞が聞こえてきたので、咲弥は笑って瞳を開けた。
目の前でファラミアが頭を垂れている。どうやら湯から上がったばかりのようで、ウェーブの掛かった髪はいつもより重く揺れて俯いた顔を隠していた。
「あれ、風呂入ったとこ?」
「……ええ。あのまま会議が始まってしまったので、きちんと身を清める暇がなくて」
「大変だったなー。俺、情勢とかよく分かんねえけど、今はハラドを相手にしてる場合じゃねーのに」
「相手もそれを狙っているのでしょう。南イシリアンを奪われれば、ゴンドールの西側が孤立してしまいますから」
「ああ、なるほど……イシリアンの西にはドル・アムロス大公領もあったっけ」
「ええ。アムロスの兵力を失ってしまったら、ゴンドールは終わりです。あの地を手放す訳にはいかない」
「それに、あそこはファラミアのお母さんの故郷だしなぁ」
何の気なしに続けると、ファラミアはぱっと顔を上げて目を見開いた。
「あれ?ゴメン。無神経だった?」
「い、いえ。……母のことを……知っているのですか?」
「あー、えーと。ちょっと本で読んだだけで、知ってるってほどでは」
それは事実だった。
彼の母について、咲弥が知っていることはほとんどない。海辺の都からデネソールに嫁いできた美しい姫君で、彼にも民にも非常に愛されたが、故国への郷愁とモルドールの恐怖により早世したことくらいだ。
確か、ファラミアがまだ幼い頃に亡くなったのではなかったか。
「優しくてきれいで、誰からも愛される人だったってことしか知らない。ゴメン」
身を竦めて言うと、ファラミアは数回瞬いて、それからふわりと笑った。
「ありがとう。サクヤ」
「いやいや、社交辞令じゃねえから。ほんとに俺の世界の本にはそう書いてあるんだって」
「ええ、嬉しいです。母上は私にとって、父や兄と同じくらい大切な方ですから」
「うん、そうだろうね。ファラミア見てるとお母さんがどんな人だったか分かるよ?」
「い、いえ……私は……あの、サクヤの世界の本には、父や兄のことはどんな風に書かれているのですか?」
「え?」
まさかそう返ってくるとは思わなかったので、咲弥はきょとんとして彼を見た。
ファラミアは全く他意のない顔でにこにこと答えを待っている。
「……えーと」
少し喋りすぎただろうか。一瞬はぐらかそうかと思ったが、デネソールやボロミアは実際に会っている人物だし、客観的評価の点では物語とあまり変わらない。……個人的にはちょっと違ったけれども。
まあ問題ないか、と考え直して、咲弥は秘密の話をするように口元に手を当てた。
「じゃあ、内緒だぜ?俺がこんなこと言ったって知ったら、ボロミアなんか怒るか図に乗るかのどっちかだからな」
「ふふ、分かりました。兄が怒るとは思えませんが」
「怒るよ。『私に話さないことを何故ファラミアには話すのだ!』ってぶんむくれると見たね、俺は」
「あの兄にそんなことを言わせるのはあなたくらいですよ、サクヤ。あなたは不思議な方ですね」
「は は は ……」
それはお兄様と俺が化かし合いをしているからですよー、とも言えず、咲弥は笑って誤魔化した。
◇ ◇ ◇
しばらく他愛もない話を続けた後、さすがに気温が下がってきたので、二人は城内へ戻ることにした。
「じゃあな、また明日」
「ええ。楽しい話をありがとう」
中庭まで共に行き、そこで手を振って別れる。
迎賓館の方角へ歩き出してから、咲弥は自分が持ったままの彼のマントを思い出して、振り向いた。
「あ、ファラミア。これ」
言いかけて。
もう数メートルは離れてしまった彼が、別れた場所でじっとこちらを見送っていることに気づく。
一見無表情に見える顔を見返して、咲弥はゆっくりとそこへ戻ると、無言でマントを差し出した。
そして、受け取ろうと伸ばされた手を捕まえる。そのまま立ち去ってしまわないように。
「ファラミア。昼間のこと、気にしてないから、ほんとに」
「…………けれど」
「逆に助かった。俺、今まであんま現実味なかったからさ。みんな頑張って生きてんだってこと、深く考えてなかった。
そんな態度の奴が混じってたら、全体の士気や民意にも関わるもんな」
そう言うと、彼はわずかに首を振った。
「サクヤ。私は……私たちは、あなたの心までゴンドールのための犠牲にしようとは思っていません。
あなたは自分の意思でここに来た訳でもなく、罪を犯した訳でもない。それどころか我らを助けてくれたのですから」
「うん、ありがと。けど、俺はふわふわ生きてんの性に合わないから。できそうなことはやってみないと気がすまねーの。
もうエルラドから聞いたかもしんないけど、なんとか戦えるくらいになったら、外に出てみるよ」
イルゼのようなことができればよかった。
或いは民衆のおかみさんのように、戦う者が帰るのを耐えて待つことができればよかった。
王のように。執政のように。大将のように、貴族のように。料理人や庭師や医者や伯楽や、自らの成すべき役目を成せる人間であったなら、よかったと思う。
けれど自分はそれができないから。まだしも一番ましなのは、兵士という職業だろう。
その結論を聞いて、ファラミアは力なく呟いた。
「……危険、なのです……この世界は。どこでオークや敵国人に会うか分からない。今日のような奇襲も珍しくない」
「わかってる、とは言えねえけど。覚悟はしてるつもり」
「あなたには」
哀しそうに顔を歪めながら、ぐ、と掌を握り返して。
「あなたには他の生き物の命を、奪わないままでいてほしいのです」
せっかく平和な世界で生まれ育った御身なのに、と、その瞳が語っていた。
「……ファラミア」
あまりにも痛ましげなその表情に、咲弥は考えるより早く苦笑を返した。
彼の羨望を含んだ思いやりは嬉しいと思う。それだけで、自分の生まれに価値があるような気さえしてくるから。
けれどそのために、またあんな顔をさせるのかと思うと、黙っていることはできなかった。
もう何十年も戦ってきた一国の大将が、今さら罪悪感や気弱さを露わにする理由は、この素性にこそあるのだ。相手が自分でなければそんな隔たりを感じないのだろうという事実は、暗黒の空のように咲弥の心を重くしたから。
「気持ちは嬉しいけど、人間てのは他の命を奪わずには生きられない種族なんだと思うよ」
「……………」
「俺が殺さない分、あんたが殺すなら同じだろ。いつまでかは分かんねーけど、俺だってこの世界で生きてんだからさ。
まあ、あんま戦力にはならないだろうけど……でも俺はそれを、全部ファラミアたちに押し付ける気にはなれない」
「……私は……」
「そんな顔すんなって。今すぐ戦いに出るなんて言わないから。……ま、ちょっと外を見る位はしてみたいけどな!」
言いながらちらりと門の方に目をやる咲弥に、ファラミアはぎょっとして繋いだ手に力をこめた。
飄々としたその台詞と表情は、まるで今から外に出てみようかというような気軽さに見えたから。まさかとは思うが、しかし、彼女ならばやりかねない。
「い、いけません!夜間に外へ出るなど以ての外です!」
「えー。……ちらっと見てくるだけでもだめ?」
「当たり前です!いいですか、きちんと斥候を送って準備してからでなければ、近場でも命取りになるのですよ!」
「城の周りなら大丈夫じゃねえの?見張りだっていっぱいいるじゃん」
「駄目です!!サクヤ、もしあなたが戦えるようになっても、絶対に一人では外に出ないと誓って下さい!」
狼狽えて叫ぶ彼からは、先程までの悲愴感が消えている。
それを確認して心の中で小さく笑い、咲弥は仕方なさそうに頷いた。
「んー、わかった。もし外に出る時はちゃんとファラミアに言うー」
「絶対に、ですよ?門の外一歩でも必ずですよ!」
「りょーかい。……てことは、ファラミアが一緒に行ってくれるってことだよな?やったあ!」
「え?」
「近い内に遠乗り行こーよ、海が見たいなー。あとローハンにも行きたいし、できればアムロスにも行ってみたい!」
「…………はぁ」
言質を取られたことに気づいたファラミアは、ため息をついて握っていた手を離した。
これでは、外に出ることを許可したも同じだ。一通り戦えるようになるまでなどという基準では、もしかしたら一月も経たないうちに達成されてしまうかもしれない。
勿論、この世界で戦うに必要なものは、剣の腕だけではないけれど。
一体なんと言って兄に報告すればいいんだと悩みながら、ファラミアは返されたマントをばさりと羽織った。
咲弥はそれを満面の笑みで眺めて、慰めるように彼の肩をとんと叩いた。
「ま、すぐ元の世界に戻れるなら甘えたかもしんないけどさ。そうそう帰れないみたいだし、しょうがねーじゃん?」
「……私も、あちこちで情報を集めさせてはいるのですが……」
「下手に素性明かせないしなあ。そこらの人に分かるようなネタじゃないし、エルフや魔法使いに聞くしかねーのかな。
あ、そういやガンダルフ……えーと、こっちではミスランディアだっけ?あの人ゴンドールには来てないの?」
その言葉に、ファラミアは一瞬驚いて咲弥を見返したが、それ以上言及はしなかった。
「……ええ、そうですね。あの方さえ来てくだされば、サクヤのこともきっと何か教えてくださると思うのですが。
けれどミスランディアは、もう何年もゴンドールにはいらしていないのです。言伝する宛てもありませんし」
そういえば、そんなことを読んだ気もする。
彼が長くホビット庄にもゴンドールにも訪れなかった時期があった。確か、あの指輪の情報とゴラムの所在を探している時ではなかったか。
それが何年続いたか、今がどのあたりなのかは分からないが、指輪戦争が始まるまでに少なくとも一度はこの都に現れるはずだ。具体的にいつになるか推測はできないけれども。
これは早急に記録を調べて見当をつけた方がいいな、と思いながら、咲弥はファラミアに頷いてみせた。
「そっか、まあ気長に待つよ。とりあえず俺にできる当座の仕事と、あと本が読めるように字教えてくれる?」
「………あなたがそれを望むなら」
複雑な顔をしながら、ファラミアはそう答えて瞳を伏せた。
つづく
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