| 「 おい、こら。少しは自分で歩かんか」 
 片手で扉を開け、『それ』を自室に引っぱり込んだボロミアは、煩わしそうに呟いた。
 兵士ほど重くないとはいえ、人一人を引き摺ってくるのは意外と骨が折れる。抱えて運べれば楽なのだが、腹を圧迫したり揺れたりすると途端に文句が出るので、こうやって運んでくるしかなかった。
 
 「うぜぇ〜……気持ちワリー……」
 
 荷袋のように輸送された咲弥は、大儀という言葉を体現しているかのようにそれしか言わない。
 意識はあっても指を動かすのすら億劫といった風情で、まるで人形のように携帯されるだけだった。
 
 「全く……どこまでも迷惑な奴だな」
 
 ぼやきつつ、ぐでぐでの体を寝台に放り出す。
 小さく呻きが上がったが、ボロミアは聞こえなかった振りをした。
 
 「おい、水は飲めるか?」
 「……あー……」
 「なるべく大量に飲んだほうがいい。吐けるなら吐いておけ、夜中に上掛けを汚してしまっても知らんぞ」
 「……うー……」
 
 いくら言っても、生返事しか返ってこない。
 ため息をつきながら水差しを傾け、コップを持って振り向いた彼は、目を瞬かせて足を止めた。
 
 ケットの上にうつ伏せになったまま、咲弥はごそごそと片手だけを動かし、横着に服を脱いでいる。
 閲兵の時に万が一にも気づかれないよう革鎧まで着けさせてしまったから、酔っぱらいには相当苦しかったのだろう。
 寝たまま器用に両脇の結び目を解き、くぐるように鎧を外し、ついでに襟の高い胴衣まで脱ぎ捨てて。
 薄い袖のない肌着……たんくとっぷ、とか言っただろうか?それ一枚になった咲弥は、やっと大きく深呼吸した。
 
 その姿を見て、『そういえばこいつは女だったな』と今更の感想を抱き、ボロミアは思わず苦笑した。
 先程弟があれほどに驚愕した訳がようやく分かったから。確かに軽率だったかもしれないが、今から弁解しに行くわけにもいくまい。
 とりあえずその件は明日に回すことにして、ボロミアは水の入ったコップを差し出した。
 
 「ほら。水だ」
 「ん……さんきゅ、ちょいまち……下も脱ぐ」
 「一応言っておくが、こういう状況で服など脱ぐものではないぞ」
 「あー…?んだよ、別にいーだろ……お互いにいい大人なんだから。細かいこと気にすんな」
 「それはそうだが」
 
 ふう、とまたため息が漏れた。
 実際、彼もその程度のことをとやかく言うほど若造ではない。前回は思いがけない事実と精神的なショックで醜態を晒してしまったが、そうと分かっていれば例え咲弥が全裸で歩いていようと動揺はしないだろう。……ため息はつくだろうが。
 
 「
  だが、行儀が悪い」 
 言ってしまってから、異世界の者に自分の価値観を押し付けるのもどうかと思ったが、咲弥は存外素直に頷いた。
 
 「そりゃ当然の評価だな。直す気はねえけど」
 「ならばせめて相手を選べよ。父上の前でそんなことをしたら、不敬罪で即刻国外退去かもしれんぞ」
 「あー、そーだろなぁ。あの人冗談通じなさそうだもんなー」
 「父上だけではない。文官でも武官でも、ここではそういうことを看過する人間のほうが少ないのだと知っておけ」
 「へーへー。どのみち他人の前で服なんて脱げないだろ、あんたとファラミア以外の前ではやんねーよ」
 
 コップを受け取りながら、咲弥はめんどくさそうに答える。
 そして一気に水を飲み干すと、また深呼吸をしてばふんと布団に逆戻りした。窮屈な衣服から逃れたせいで、体も大分楽になったようだ。
 
 「もう一杯飲むか?」
 「いや、もーいい。さんきゅー」
 「それなら少し眠れ。朝になったら小間使いを呼んでやる」
 「小間使い?」
 「イルゼだ」
 
 途端に咲弥が複雑な顔をしたので、ボロミアは不思議そうに首を傾げた。
 イルゼは最初の日に着替えを持ってきた女官で、咲弥の性別を知っている三人のうちの一人だ。もともとボロミア付きであり、身元や素質は言うまでもなく上等、未だ若年ながら将来の女官長候補という逸材である。
 咲弥自身、先ほどの酒宴ではイルゼが一番いいと太鼓判を押していたはずなのだが……。
 
 「いや、イルゼがいい子なのは分かってるよ。可愛いし、有能だし、気が利くし」
 「そうだな。イルゼが駄目なら他の者では勤まらんだろうな」
 「ダメとかそういう意味じゃないんだ。ただ、なんつーか……ちょっと極端、で」
 「極端?」
 「例えばさー。朝起きるじゃん?あー今日もいい天気だなーってゴロゴロしてると、測ったようにイルゼが来るんだよ」
 「うん……?」
 「で、『おはようございます、サクヤ様。どうぞお召し替えを』っつって、有無を言わさず服脱がそうとするわけ。
 自分でやる!って拒否してなんとか着替えると、次は朝飯で、あれやこれや世話焼かれんの」
 「??」
 「で、日が落ちると風呂の世話やらまた着替えやら、もう一日中付きっぱなし世話しっぱなしなわけよ!」
 「……それが?」
 
 訳が分からないという感じで問い返すボロミアに、咲弥は疲れた顔で両手を枕に投げ出した。
 
 「あのなー。あんたらはここのお偉いさんでそれが普通かもしんないけど、俺はそんなハイソなお育ちじゃねーんだよ。
 いちいちいちいち世話されんのウゼー。メシも風呂も着替えも一人でできるだろ」
 「そういうものか?」
 「そうだよ!しかもあの子、何かあるとサクヤ様サクヤ様って、なんかこう……崇拝?してるみたいな感じしねえ?
 俺は貴族でも王族でも神子でも救世主でもない、元の世界じゃただの小市民だっつーのに!」
 「……そうかもしれん。そもそもおまえ専用の小間使いを付けるのは、イルゼが言い出したことだからな。
 『サクヤ様のお世話に専念したいので、お仕えさせていただいてもよろしいでしょうか』と言って来たぞ」
 「うああああ〜マジか〜。それってもうイルゼに決まったも同然てことなのか〜?」
 「まあ、そういうことだ。勿論、おまえが嫌なら拒否することはできるが」
 「う……嫌、とまでは言わないけど」
 「実際、他の者が世話するとしたら問題がある。寝る時や風呂上がりまで厚着して過ごしたくはないだろう?」
 「……それはそーだけど」
 「彼女であれば、秘密を漏らすことはまずない。対処は考慮させるから、なんとか大目に見てくれないか」
 「……………」
 
 そう言われると、返す言葉も見つからない。
 さすが一国の重鎮は交渉の仕方を心得ていらっしゃる、と心中でぼやきながら頷くと、察したらしいボロミアが苦笑して肩をすくめた。
 
 「別に、おまえの不満を無視したいわけではないさ。おまえは故郷ではどんな暮らしをしていたのだ?」
 「ん?そうだなー。まあ技術とか文化は違っても、暮らしとしてはここの住民とそう変わらない…かな?」
 「そちらでもやはり、国同士が戦争をしたり飢饉や疫病が起こったりするのか」
 「あるにはあるけど……俺の国ってのが世界でも例外的なとこで、はっきり言えばそういうのは他人事なんだよ」
 「他人事?」
 「小さい島国で、周りとは隔離されてるからってのもあるんだけど。今は戦争も飢饉も、大規模な疫病もない」
 「いいことではないか」
 「でも、他の国では普通に起こってるからな。平和なのはいいけど、正直たまに罪悪感を抱きながら生きてるって感じ?」
 「……よく分からんな。自国が平和ならば、それを幸せに思えばいいだろう」
 「ま、そんだけ平和慣れしてるってことだ」
 「平和慣れ……か」
 
 その言葉にふと何かを思い出したように、ボロミアは視線を落とした。
 
 あまりに言動が気安すぎて、本人を見ていると忘れてしまいそうになるが、咲弥はこの世界の者ではない。もしここの人間であれば、平和慣れなどという言葉は冗談でも口にしないだろう。
 彼も最初は、異世界というのはいくらなんでも言い過ぎであって、例えば遠い所から来たせいでこの国に馴染みがないだけかと思っていた。
 それは至極真面な考え方で、咲弥の説明ともさほど矛盾しないものだったが、ただひとつ違和感が拭えないことがあった。咲弥が自覚していない『油断』だ。
 この世界の種族は皆、多かれ少なかれ暗黒との戦いを知っている。直接見たことがない者でも、我が身に降りかかる現実として、親や年長者から伝えられている。
 そうすると、当然自分の知らないものや見たことのないものに対しては、きちんと警戒できるはずだ。
 
 しかし咲弥には、頭で判断する知識はあっても本能的な危機感がなかった。もしあれば、今頃は部屋に鍵を掛けてじっと様子を窺っているか、権力者である自分たちに諂っているだろう。
 行動の根底に透かし見えるその感覚的なものが、ボロミアに咲弥の言い分を信じさせた一番の要因だった。
 そう
  例えば、エルフがこの世を去って赴くという至福の国で生まれ育った者であれば、こんな反応をするのではないのだろうか? そう思った瞬間、不意に妙な焦りが心に浮かんだ気がした。
 
 「……おまえにとって、この世界は……良い所とは言えないのだな」
 
 思わずそう呟くと、咲弥はきょとんとした顔をして目を瞬かせた。
 
 「……どした?ボロミアがそんなこと言うなんて」
 
 常にゴンドールを誇りに思い、先頭に立って民を導いている彼がそんな風に言うとは。
 それはしばらく共に過ごした者としても、そして物語として彼を知っている者としても記憶にないような態度だった。
 
 「いや、別に。ただ思いついただけだ」
 「思いついたって。あんたらしくねえなー」
 「そうか」
 「そうだよ。じゃあんたは、平和なら俺の世界に来たいって思うのか?」
 「……………」
 「な?そーゆーことだよ。どんなとこであっても、自分の故郷が一番なのは誰でも当たり前だろ。
 それに俺は、この世界……つーかこの国のこと、嫌いじゃないぜ?」
 
 それを聞いて、ボロミアは怪訝な、むしろ不審といっても差し支えないような表情をした。
 
 「何故だ。平和な世界から来たのに、何故そう思う」
 「何故って。そりゃ、色々危険もあるだろーし、ちゃんと帰れるかどうかも分かんないけどさ。悩んだって仕方ないし。
 それよりもあっちではできない貴重な経験とか知識とか、そういうのを楽しんだ方が建設的だろ」
 「楽しむ…?」
 
 やはり彼には、その考え方は理解できない。けれど。
 続いた言葉で、胸の裡に漂っていた焦燥感はすっと霧散した。
 
 「それに何より、ここの人たちってみんな親切でいい人ばっかじゃん?経緯はどうあれ、知り合えて嬉しい」
 
 にこにこと見上げてくる咲弥には、媚や打算の色は見当たらない。
 それをしばらく眺めてから、ボロミアはやっと小さく微笑んだ。
 
 「……そうか」
 「うん」
 「……もう眠れ。明日まで酔いを持ち越したくはないだろう」
 「んー」
 
 そう言われると急に眠くなってきて、もぞもぞと布団に潜り込む。
 白いシーツのすべらかさとケットの柔らかい感触が、半分眠りかけていても心地よかった。
 
 「なんか、いいな〜……ボロミアんとこのベッド」
 「うん?」
 「俺んちのに似てる……なんか懐かしー。今寝てるベッド、やたら豪華で落ち着かねーんだ……」
 「……同じ物を部屋に運ばせるか?」
 
 ボロミアが『懐かしい』という言葉を気遣ってくれているのが分かって、思わずくくっと笑みが漏れた。
 
 「いーよ別に。めんどくさい」
 「だが、」
 「また懐かしくなったら、ここで寝かせてもらうし。ボロミア追い出して悪いけど〜」
 
 そんなことくらいは構わんが、という呟きをケットに潜ったまま聞きながら、咲弥はゆっくりと瞳を閉じた。
   つづく  |