彼が足を踏み入れた時、そこはすでに大混乱に陥っていた。
「……これは」
先程まで行われていた宴など比べ物にならないほどのお祭り騒ぎが部屋中で繰り広げられ、歌う者や踊り出す者までいる始末。
野営地での勝利の祝宴ですらここまで酷くはならないな、と思いながら、彼は辺りを見回して目当ての人物を探した。
そこへ、見知った者が駆け寄ってくる。
「ファラミア様、お帰りなさいませ!」
「エルラド。……すごいことになっているな」
「も、申し訳ありません。ボロミア様にも念を押されたのですが、漏れ聞いた者が一目でもと集まってしまいまして……」
身を縮めて恐縮する部下に、ファラミアは苦笑して手を振った。
異国からの客人は珍しくないが、いつも接待するのは廷臣や文官で、一般兵はあまり会う機会がない。ましてや彼らと酒を飲もうとする客など皆無だった。
それ故に皆、珍しくてしょうがないのだろう。決して狭くはない詰め所にはいつもの数倍の人数がひしめき、ガチャガチャと杯をぶつけ合う音があちこちで鳴り響いていた。
「それで、彼の方はどちらか」
「は、奥に。ボロミア様とご一緒です」
目をやると、普段は作戦の打ち合わせを行う広いテーブルに、大勢の兵士に囲まれた兄の姿が見えた。
身長差でここからは確認できないが、おそらくそばに彼女もいるのだろう。
彼女……か。
自分の考えでふとそれを思い出して、ファラミアは少しだけ不安になった。
女性が一人、この大騒ぎの渦中に放り込まれて、怖い思いをしてはいないだろうか?
ゴンドールはローハンほど開放的ではないが、一般兵士に混じってしまえばさほど変わりはない。いくら咲弥がこの世界の女性とは違うと言っても、酒や肉や叫声が飛び交うような所で心安くいられるとは思えなかった。
彼の兄はそういったことにまったく気が回るタイプではなかったので、ファラミアはそちらに向かって急ぎ足で歩き出した。途中ぶつかった者が慌てて頭を下げ、道を空ける。
そうしてようやくテーブルの側まで来た時、彼はこの部屋に入ってきた時よりも驚いて目を見開いた。
「だーかーらー!ちゃんと答えろっつーーの!!」
ゴブレットを振り回しながら、周りの喧騒に負けない大声で喚いているのは
「うるさい、いい加減にしないか!おまえ、その絡み酒をやめろ!」
辟易した素振りをしつつも、差し出された酒瓶を常にない気安さで奪い取っているのは
「はっはは、サクヤ殿は酒にお弱いのではありませんか?」
「ゴンドールの酒は強いですからなあ!」
その周りで、楽しそうに二人の言い争いを煽っているのは
「…………兄上、サクヤ」
「あーっ、ファラミアだああー!!」
気の抜けたような声を出すファラミアに、誰よりも早く咲弥が気づいた。
途端にガタンと椅子を蹴り、猛然とダッシュする。
そして狼狽える彼に向かって優れたジャンプ力を発揮すると、斜め横からがっしりと肩の辺りに取り付いた。
「ファラミア、おーそーいー!もう酒なくなっちゃったぜー!」
「な、……な!?」
「罰として一気でもしてもらおうかな!あーでも急性アル中になったらまずいから……おつまみ一気、とか?あははは!」
ぶらぶらと自分の背中からぶら下がりつつ爆笑する咲弥に、ファラミアは呆然とした顔を向ける。
「…………サク、ヤ?」
「はいはーい!咲弥でいっす!おねーちゃーん、ファラミーの分のお酒とおつまみお願い!大盛りね!大盛り!」
「ああ、私が伝えてきましょう。サクヤ殿のお好きな酒も余分に持ってきますよ」
「わーさんきゅー!おっちゃん大好き!」
「お……」
おっちゃん、と呼ばれた壮年の兵士は、気を悪くした様子もなく席を立っていく。
固まったままのファラミアに、苦笑したボロミアが声をかけた。
「ご苦労だったな。片付いたか?」
「は…はい、大過なく。遅くなりまして申し訳ありません。……もう終わっていると思ったのですが」
「まあ、あれだ。こいつはこういう性格だから……少し、盛り上がってしまってな」
「こういうってどーゆーだよ!長引いたのはボロミアのせーじゃん!」
「何故だ。私は何も」
「ボロミアがさぁ、どのおねーちゃんが好みか頑なに言わないからさあー。ここの人たち美人揃いなのに〜」
「私はそのような基準で使用人を見ないと言っただろう!」
「またまたー。ノリ悪いんだからこのむっつりすけべは!」
「妙な名で呼ぶな!!意味は知らんが非常に不愉快だ!!」
「意味は君が思った通りだよワトソン君〜ボロミーはほんっと頭がいいね〜☆」
「やめんか!」
周りの哄笑が響く中、自分にしがみついている咲弥と立派な将軍であるはずの兄は、まるで子供のように言い合いをしている。
なんだか頭痛がしてきた気がして、ファラミアは思わずこめかみに指を当てた。
自分がいない数時間の間に、いったい何があったのだろうか。全員かなり酔いが回っていることは分かるが、それにしてもそれだけでは説明できないほど、咲弥はこの中に溶け込んでいる。
任務に出なければならなかった自分を心の中で疎んじて、彼はすぐにその気持ちを押し殺した国と兄に対して不謹慎だと思ったから。
咲弥が掴まっているのとは反対側の背後から、控えていたエルラドが小さく囁く。
「少し酒が入った辺りからずっと、お二人ともあのような調子でして。
もともとサクヤ様に専用の小間使いをつけようという話が出て、誰がいいかという話になり、そこからどんどんと」
「話が弾んだというわけか」
「は。何分にも皆、こういった話は面白がる傾向にありますので……」
「なるほどな。……サクヤ?」
「んー?なーにー」
「相当酔っているようですが、そろそろ部屋に帰って休んだ方がよくありませんか?」
「酔ってない〜まだ〜」
「では……とりあえず、席に戻りましょう。ほら、酒が来ましたよ」
「あ、戻る戻る。じゃあみんな、も一回乾杯しよー!ファラミアのもほら、注いで注いで!」
どば、と豪快にこぼしながら、ジョッキに酒がなみなみと注がれる。
それをファラミアが取り上げたのを確認して、咲弥はどん!と机に足をかけた。
「そーれーでーはー!遅ればせながらファラミアの参加を祝して、乾杯の音頭を取りたいと思いまーす!」
陽気な、というよりは浮かれた言葉に、『それは我等が御大将の役目だ』と誰かが言い出すのを一瞬危ぶんだファラミアだったが、辺りにいる者は皆それに従って杯を掲げた。
「ゴンドールの、繁栄と勝利を祈って!」
「ゴンドールに!」
「ゴンドールに!!」
唱和と杯の合わさる音が、朗々と部屋に響く。
ガチンと思い切りジョッキをぶつけてくる、遠慮のない明るさと親しみを間近に感じて、ファラミアも思わず笑みを浮かべた。
なるほど……。これは、兵士達が盛り上がるのも無理はないかもしれない。
この国の兵士にとって、異国の者とは即ち上流階級の客か、さもなくば倒すべき敵のはず。それは他国であっても変わることはない。
けれども彼女は恐れも緊張もなく、今日会ったばかりの彼らに気を許して対等に語り合おうとしているのだ。
戦場であれば、そんな行為は自らの首を絞めるだけなのだが、だからこそ戦に倦んだ者たちには新鮮に見える。
それは咲弥のいたところが平和な世界だったからなのか、それとも個人の資質によるものか。おそらくどちらも正しいのだろう。
末恐ろしいな、と無意識に考えて、ファラミアは不意に表情を苦笑に変えた。
彼女に悪意はなくとも、安易に油断することは窮地を招く。特に自分は命を懸けて父と兄を守らねばならないのだから、外敵に対して他の誰よりも懐疑的でなければならない。
ならない、のだけれども。
「うわ、また笑った……レンジャーってマジで役得だな。こんなの毎日見てんの?」
「いえ、毎日というわけでは。責任あるお立場ですから、このように微笑まれることなど滅多にありません」
「でもたまにはあんだろ?あー、レンジャーめっさ入りてぇ〜!絶対無理だけど!」
「サクヤ様が望まれるのであれば、我らに同行することもできるのではありませんか?」
「駄目駄目、そんなんただの足手まといじゃん!少なくとももーちょい腕が上がんねーとどうしようもないって!」
「……では、僭越ながら私がお教えしましょうか。父は剣の達人でしたので、私も恥ずかしくない程度の嗜みはあります」
「マジで!?助かる!どっちみちここにいるからには訓練しなおさなきゃと思ってたんだ〜!」
こそこそと楽しそうに部下と囁きあっている彼女に嫌疑を向けるのは、ゴンドールの大将であっても相当の難題だった。
◇ ◇ ◇
やがて、夜も更けて明日の予定に差し障りが出てこようという時刻。
兵士達は朝早い者から順に詰め所を辞し、そこにはすでに10人ほどしか残っていなかった。
「……サクヤ、サクヤ。そろそろ部屋へ戻りましょう」
「う、うー…………飲みすぎた……」
中途半端に突っ伏したまま呻いた咲弥に、ファラミアは腕を取って助け起こしながら頷いた。
「そうですね、かなり過ぎているようです。見たところあなたの許容量はそれほど多くないのでしょう?」
「そうなんだけどさあ……俺いっつもこうなんだよね。雰囲気いいとついガンガンいっちゃってさ〜……」
「それは、ゴンドールの民には誉め言葉と受け取っておきますが。……大丈夫ですか?」
「視界がグルグルする……あと気持ち悪い……」
「部屋まで支えて行きますか?」
「いや、いい……ってか戻るのむり……渡り廊下わたって階段おりて中庭つっきって階段のぼって部屋までとかむり〜…」
「お、おい。本当に大丈夫か」
糸が切れたように言って、べたりと再びテーブルにダイブする。
ファラミアは心配そうに覗き込み、ボロミアはどうしたものかと思案を巡らせた。
今いるこの本館は、基本的に執政家の居宅である。当然、部外者がそう易々と入れる場所ではなく、今日の咲弥は歓迎の宴の賓客という位置づけで訪れていた。
そして客が使う部屋のある迎賓館は、保安上の理由から離れたところにある。確かにここまで酔ってしまうと、抱えて行ったとしても体調の悪化は免れないだろう。
「ごめん……このままでいいから、ちょい寝かせて……」
「そんな、サクヤ。風邪をひいてしまいます」
「だいじょぶ……体だけは丈夫だし……」
「無茶を言うな。客を病気にさせたらゴンドールの威信に関わる」
「内緒にしとけそんなもん……う、苦しい……服脱いでもいい?」
「駄目だ」
「駄目です」
ステレオで却下されて、咲弥は唸りながら恨めしげに二人を睨む。
ファラミアはふう、と諦めたようなため息をついた。
「……では、この上階にある応接室で休んでください。私が看ていますから」
自分が身柄を引き受ければ、それほど問題にはならないだろう。もしかしたら何か言われるかもしれないが、聞き流せば済むことだ。
一夜明ければ迎賓館に戻れる程度には回復するだろうし、そうしたら小間使いに任せてしまえばいい。
そう思って許可を得るべく兄の方を見た彼は、思いがけない様子を目の当たりにして言葉に詰まった。
「……………。」
ボロミアは何事かを考え込むような表情で、じっと咲弥を見ている。
眉を顰めたその姿は、驚くほど父親に似ていた。
正直、迷うところではある。
本館に泊まること自体は構わない。通常の客なら支障もあるだろうが、咲弥は(表向きは)執政閣下の賓客なのだから、それなりの自由が許されている。不可抗力の出来事だと言ってしまえば咎める者もいないだろう。
けれどその前に、咲弥は他の者とは違う特別な客だった。
普段表に出すようなことはしないけれど、白の大将と異世界からの客人の間には、言うなれば暗黙の攻防のようなものが見え隠れしている。
ボロミアは、できれば貴重な情報をゴンドールのために引き出したい。
咲弥は咲弥で、それをさせないために対等の関係を保ちたい。
あえて自分たちへの口調を改めないのはそういう意図があるのだろう、とボロミアには思われた。あるいは考え過ぎかもしれないが。
そういった政治上の駆け引きめいた事情を、ボロミアは未だ弟に話していない。
それは信頼や能力が足りないせいではなく、善良で誠実な弟をそのようなことに関わらせたくないという思いからだった。だが、だからこそ、自分の知らないところで情報のやりとりをされては困るのだ。
そう結論づけたボロミアは、深く考えずに思いついたことを口にした。
「私の部屋へ連れて行こう」
「兄上!?」
弟があまりにも驚いた顔をしたので不思議に思ったが、それを問う前に周りの者が慌てて彼を止めた。
「ボロミア様!それはなりません」
思いがけなく打ち解けたとはいえ、咲弥は異国の人間。ゴンドールの総大将であり世嗣である彼の私室という機密エリアまで入り込ませるわけにはいかない。
もしも咲弥が敵のスパイだったらどうなる?それどころか暗殺者だったら?可能性として考えれば、あの時刺客を倒したのも策でなかったとは言い切れまい。
本来、そんな危険を防ぐための迎賓館であるはずなのに。
口に出されない懸念を吹き飛ばすように、ボロミアはおかしそうに笑ってみせた。
「私はサクヤの出自を皆よりも詳しく知っているし、そもそも私室には機密情報は置いてない。執務室は見張りがいる。
万が一寝込みを襲われたとしても、武器も持っておらぬ酔いどれにしてやられるとは思えんしな」
「それは……そうでしょうが」
「まあ、この中の誰よりも私の方が、こいつの扱いと我儘には慣れてしまっただろうさ。
こんなことを許して良いものかといちいち聞きに来られるよりは、いっそ面倒を見たほうが早いと思うぞ」
その言葉に笑いが起きるほどには、咲弥は彼らから友誼を得ていた。
ボロミアはそれ以上議論の必要性を認めず、うだうだとぐずる咲弥を立たせながら弟に言付けた。
「すまんが、念のため警備の者に連絡しておいてくれ。くれぐれも父上の耳には入らんようにな」
ファラミアは戸惑ったような顔で頷いた。
つづく
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