ふわりふわりと、風が舞う。
青の指輪が喚んだ風が、彼の体を纏うように舞って、窓の隙間からすり抜けていく。
それに気を取られることなく、エルロンドはじっと目の前の少女を見つめた。
すうすうと立てる寝息は昨夜より随分と穏やかだったが、それを何度も確認してしまっていることに彼は気づいていなかった。
「……ん、んん」
するり、と頬を撫でると、エリはほんの一瞬だけ眉根を寄せて。
そして安心したように、柔らかく微笑んだ。
「まだ心配なさっていらっしゃるの?お父様」
不意に、入口から笑みを含んだ声がかかる。
彼がそちらに目を向けると、水盤を持ったアルウェンがくすくすと声を立てながら入ってきた。
「そんなに難しいお顔をなさるようなことではないと、お父様が一番ご存じでしょうに」
医術の大家であるエルロンドでなくとも、そして病を負わないエルフであっても、エリの症状が軽い風邪であることは分かった。
昨夜までは少し熱もあったようだが、今やそれも引き、普段となんら変わりはない。
それでも、エルロンドはエリのそばを離れようとはしなかった。一晩中、ずっと。
「心配はしておらぬが……我々にしてやれることなど、他にはあるまい」
「それはそうですけれど」
今も心配なくせに嘘つきね、と心中で呟きながら水盤をテーブルに置き、アルウェンはエリの顔を覗き込む。
それでも手を離そうとしない厳格であるはずの父に、笑いをこらえながら。
「汗もかいていないし、もう完全に熱は下がったようですね」
「目が覚めれば空腹も感じよう。何か消化の良いものを用意させてくれ」
「そちらは既にグロールフィンデルが手配しております。他の者も皆、心配していますわ。
もう、この子ったら窓を開けたまま眠るなんて……いくら裂け谷であっても、この季節はやはり寒いものなのに」
「窓を開けて……か……」
娘の言葉を繰り返し、エルロンドはすいと席を立った。
窓際に寄ると、先程と同じ風がまた彼の体を撫でる。
確かにそれはひやりと肌寒い。しかし、自分たちにとっては何の痛痒も感じさせない、ただの清涼な空気。
そんなものに当たるだけでこのように病むとは、人とはなんと弱く脆いものであることか。
その命も心も。
アルウェンがこちらを窺っていることが振り向かずとも分かったので、エルロンドは薄い色彩の戸外を眺めながら呟いた。
「人の子は弱い、な……どうしようもないほどに」
「お父様?」
「エルフから見れば一瞬の命。その中でも悩み苦しみ、年老い、死しても魂は死者の館に行けず、甦ることもない……」
「……けれど、それがイルーヴァタールの定め。神の恩寵ではありませんか」
意外げなアルウェンの言葉に頷いて、エルロンドは嘆息した。
分かっている。そんなことは、生まれ出づる遙か昔から決められていることだ。今更確認する必要もない。けれど。
「私はこの目で見たのだ、その弱さを。喩え三千年の月日が流れようとも、欠片とて忘れることは出来ぬ。
私の言葉を拒否した、あの昏い瞳。我欲に満ちた容貌を」
「それは……」
「たった一人の人間の愚かな行い故に、中つ国の全ての生命は三千年の苦痛を強いられてきた。
その罪がどうして償えよう?どのような行いをもってすれば、贖うことができようか?
人とは弱く、脆く、罪深いものだ。賢者にはなれぬ、不死でも在れぬ。だが、それを分かっていて」
ふ、と視線を転じて、未だ眠る少女を見る。
眦を下げた瞳はつむられ、漆黒の髪は好き勝手に散り、唇はむにゃむにゃと小さく動いていた。
それに、小さく笑って。
「可笑しなものだな……その人の子が一人、ここに在ることが、あれを見た私を心穏やかにさせるとは……。
全く、理屈に合わぬことよ」
「……それはお父様が、彼らを蔑んではいないからです」
「何?」
振り向くと、アルウェンは真っ直ぐに父を見つめながら続けた。
「道を過つこと、死すべき定めであること。それらは全て、人の子がつまらぬものだと示すものではありません。
選択せぬ者には分からないかもしれません、けれど、お父様や私は」
「アルウェン」
静かに、エルロンドはそれ以上を押し留める。
そして窓枠に置かれた水差しを取り上げ、水を用意しておいてくれと言うようにそれを手渡した。
彼女はもう何も言わず、一礼してそれを受け取ると踵を返した。
ただ、一言。
「エリが目を覚ますまで、そこにいてあげてくださいね」
そんな囁きと、優しい微笑を残して。
◇ ◇ ◇
「……う、ん、んんんむー……?」
妙な呻きを漏らして、エリはゆっくりと瞳を開けた。
見慣れた天井。その中に、なにか見慣れない色彩が混じっている。
不思議に思いながら何度か瞬くと、そちらの方から突然声がした。
「目が覚めたか」
バチ、と一気に眠気が醒めた。
跳び起きることも出来ずに、視線だけを彷徨わせる。
いくらか体温の低い指先が、自分の頬に添えられていると知ったとき、エリは再び熱が上がるような心地がした。
「え、あ、あの、……エルロンド、様!?」
「どうした」
「あの、わたし……何がなんだか……?」
「おまえは風邪を引いて熱を出したのだ。もう熱は下がったが、吐き気などはしないか?」
「いえ、そうでなくて」
どうしてわたしのへやにエルロンドさまがいて、しかもほっぺたにてがあてられていて、しかもエルロンドさまはわらっていらっしゃるのでしょう?
聞きたいけれど、聞けない。
この三重奏の破壊力は並みではない。
驚きまで貼り付いたまま固まってしまったエリを見て、エルロンドは訝しげに首を傾げた。
「まだ気分が良くないなら、休まっているがよい。早く皆に元気な姿を見せてやらねばならぬぞ」
「は、はあ……スミマ、セン……」
「謝ることはない。さあ目を閉じて、もう少し休んでいなさい」
「ハイ……」
これはもう逃避しかないと、エリが瞳を閉じた瞬間。
ふわり。
あたたかい風が舞って、額に触れた感触がした。
「!!??」
「食事を用意させよう。そのまま待っているように」
更なる攻撃にこの上なく狼狽した彼女に気づかず、エルロンドは部屋を出て行った。
END.
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