「おまえは何者だ」
それが、彼女に告げた最初の言葉だった。
ある日突然保護された、小さな迷い子。
肌寒い秋雨の降る森で、その娘はひとり木陰にうずくまっていたという。
「エルフではないが、ただの人間とも思えぬ。何らかの使命を帯びて遣わされた者か?」
尋ねると、彼女はビクリと縮こまり、曖昧な顔をした。
おずおずと見上げる不安そうな瞳。寄る辺無い身を震わせて、それでも懸命に膝を折らんとする姿。
痛々しくとも、それを和らげてやることはついにできず。
その時はただ、部屋を退出する後ろ姿を見送ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「それでは、それはおまえに任せよう。他に何か変わったことはなかったか?」
ペンを走らせながら問うと、報告に来ていたグロールフィンデルがすいと離れた気配がした。
入口近くのテーブルで茶を淹れているのを視界の隅に捕らえ、書面から顔を上げる。
「いえ、特には」
「……そうか」
しかし、期待した答えは得られず、代わりにカップがテーブルに置かれる。
それに口をつけかけて初めて、自分の考えたことに気がついた。
期待した?
何を?
「…………あの娘は、どうしている?」
考えが至る前につい口を出た言葉に、グロールフィンデルが笑った気配がした。
「相変わらず……言葉が話せないわけではないようですが、自分からは進んで口をきかず、淡々と過ごしています」
「身元か目的が分かるような物は?」
「何も。どうも記憶を失ったまま長い間さまよっていたようで、裂け谷へ辿り着いたことすら覚えていませんでしたよ」
「そうか……」
「エルロンド。私は思うんですが、エリンは誰かに捨てられたのではないですか」
耳慣れない単語を聞いて、彼の眉が顰められる。
それに気づいたのか、グロールフィンデルはああ、と続けた。
「名前も覚えていないので……通り名もなくては不便でしたから」
「一つ星、か。通称にしても多少酷な名だな」
「皆、最初は身の上など知りませんでしたからね。知っていれば配慮も出来たのでしょうが」
エルフの中に混じった唯ひとりの人だから、エリン。
そう呼ばれるようになった理由は分からないでもないが、確かにそれは痛ましさを感じさせた。
あの時感じたような、理屈ではない感情を。
「……少し、外を歩いてこよう」
「どうぞいってらっしゃい。裏の林などでは、紅葉が綺麗ですよ」
不意に立ち上がったエルロンドを、グロールフィンデルはにこやかに送り出した。
外に出ると、ちょうど柔らかな午後の日差しが美しく木々を照らしていた。
静かに流れる水の音、鳥の鳴き声。優しい空気が流れるこの安息の地を、しかしエルロンドは早足で歩く。
やがて裏の林に出て、降り積もる枝葉を眺め透かした時、彼はそこに小さな影を見出した。
「……………」
銀色のローブを纏い、こそこそと落ち葉を拾う、頼りない姿。顔を見ずとも、それがあの娘であることは一目で分かる。
何不自由なく過ごすことができるこの最後の憩い館にあって、あのように不安な空気を纏わせている者など、他にはいなかったから。
どうやって声を掛けようかと、逡巡したエルロンドに応えるように、座り込んでいた彼女がふと顔を上げた。
「あ」
一言そう呟くと、慌てて土を払って立ち上がる。
ぺこりと頭を下げて、目の前で囚人のように項垂れた姿は、彼にまたあの痛みを呼び起こさせた。
「そう硬くならずともよい。先日のように検分しようと思っているわけではない」
「は……はい」
「ただ、そうだな。少し話を聞かせてくれぬか?答えたくないことは答えなくてよいから」
そう言って、脇にしつらえられた腰掛けを示すと、娘は頷いてそこへ座った。
緊張した面持ちを横目で見ながら、どうすればそれが解けるものかと考える。
そして出た台詞は、少々脈絡のないものだった。
「ここでの生活は辛いか?」
「……え?」
「しばらく経つが、あまり気が休まらないようだな。グロールフィンデルなども心配していた」
「ご、ごめんなさい!わたし、あの、そんなつもりじゃっ」
「責めているわけではない。ただ皆、心配しているのだ。できるなら、おまえの恐れていることを知りたいと思っている」
「おそれている……こと……?」
「そうだ」
そうだ。
この娘は、何かを恐れている。
どんな饗応も詩歌も、彼女の恐怖を和らげることは出来ないほどに。
「……………。」
辺りに静かな沈黙が降りた。彼女が何事か迷っているのが窺えて、エルロンドは聞こえないように息をつく。
そのように泣きそうな表情をするほど、思い詰めさせたくはなかったから。
「無理はせずともよい。……私のことが恐ろしくて話せないのならば、誰か他の者に相手をさせよう」
「そんなことありませんっ!」
戯れに告げた言葉に予想以上の反応が返ってきて、彼は思わず目を丸くした。
「エルロンド…様は、わたしの恩人です!わたしはここで、どのような不満も不足も感じたことはありません。
わたしのような得体のしれない者を置いていただいて、みなさんに親切にしていただいて。でも、わたしは、……」
「……私は?」
「わたしは……ただの子供です。自分が何者なのかもわからない。家族もなく、知識もなく、名前すらもっていない。
使命などという重要な意味をもつ者では……ないのです。このような恩義を受けてよい謂われはないのです」
娘は涙を堪えて、ひたすらに目を瞑る。
それだけで、エルロンドは彼女の恐れを理解した。
自分が何か使命を帯びて来たと誤解され、そのために滞在を許されていると思っているのだ。
そうではないと伝えようにも、他に何も持たぬ身であることを懸念している。暴露され、では出て行けと追われることに怯えている。
頼る過去すらも持たないまま、ここから去らねばならなくなることを恐れているのだ。このような、か弱き人の子が。
一体、ここに辿り着くまでにどのような目に遭ったのか。他の者が聞き出したところでは、獣に追われたりオークに襲われたりしたようだが、一様にはっきりと覚えていないらしい。
ただ、淡々と。何も考えず、何も頼れず、野の恵みだけを口にして、この裂け谷までやってきたのだ。
グロールフィンデルに保護された時、彼女は差し出された手に怯えて後退ったという。それなのに、自分の前に出た時は決して逃げようとはしなかった。この地の長たる自分に礼を尽くさねばならぬと思ったのだろう。
愚かしい娘ではない。むしろ、強く聡明であると思う。
……その彼女が、この地での安寧を逃したくないと望むのであれば。
エルロンドはふ、と風が揺らぐように立ち上がった。
「持っていないなら、与えればよい」
「え?」
何を言われたのか分かっていない表情をして、娘は背の高い彼を見上げた。
頭上から差す光に遮られたその顔は、笑んでいるように見えた。
「エルリアン。今日からそれがおまえの名前だ」
「える……?」
エルフ語で星の姫という意味だ、と言われて、彼女の頬が染まる。
「言葉も叡智も、何もかも、必要ならば教えよう。心安き家族がいないなら私がそれになろう」
「……え、あ、あの」
「私がおまえの憩いとなる。おまえが記憶を戻し、この館を去ろうと思う日まで、私の娘として恙無く暮らすがよい」
「………娘……?」
ぽかんと呆気にとられた彼女の顔は、まるで本当の幼子のようで。
また曇ってしまいはしないだろうか、と危惧した彼の想いを知ってか知らずか、その瞳からほろりと涙がこぼれた。
「……何故泣く。言っておくが、私は無理強いしているわけではない。おまえに何が足りないのかと、考えたからこそ」
「………し、い」
「この最後の憩い館において、憂う者がいることなど赦されぬ。それだけだ。気が進まないのならば、何か別の」
「ち、がいます!嫌なんかじゃありません!」
「何?」
「う、れしい……です。まさか、そんなことを言われるなんて、考えて…なかっ……た、から。
……わたしに、名前を……居場所を……あたえてくれるひとが、……わたしなんかに、……ほんとうに、」
呟きは絶え間なく、秋雨のように流れ落ちる。
彼女がこの裂け谷に現れたあの日から、ずっとつかえていたそれが、堰を切ったように溢れ出す。
ほろほろと零れ続ける涙を隠すように、エルロンドは彼女の頭を抱き寄せた。
「私なんか、という物言いは止すのだな。……おまえには似合わぬよ」
もしかしたら、この娘はただの人間の少女なのかもしれない。
不思議なことなど何もない、数多見てきたエダインと変わらぬ、有限の命持つ弱き存在なのかもしれない。
それでも、彼女が彼らと違って見えるとすれば。
それと見る者にとって、彼女が特別な存在だからなのかもしれなかった。
END.
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