彼女を初めて見たのは、緑美しい初夏。
いつものように旅路の途中で裂け谷に立ち寄ったとき、高い木々を見上げている姿を見つけたのが最初。
「こんにちは」
それは、何度も訪なったことのあるこの館で、一度も見たことのない少女だった。
こんな幼いエルフがここにいただろうかと、不思議に思いながら声を掛ける。
「私はスランドゥイルの息子、レゴラスです。お名前を訊いても構いませんか?」
すると、彼女は困った顔をして首を振った。
まるで何を言っているか分からないというように。
「決して怪しい者ではありません。私はこちらの殿と懇意にしている者で」
裂け谷には、幾日かだけの滞在のつもりだった。
その日までは。
◇ ◇ ◇
「じゃああの子は、エルフではないの?」
いつものように歓待された部屋で、レゴラスは少し驚いて聞き返した。
その様子に笑いながら、グロールフィンデルはお茶を注ぐ。
「そう、エリはエルフではない。おそらく人間……なのだろうと思うけれど」
「おそらく?」
「自分でも分からないらしい。外見から言えば人間だけれど、もしかしたらエルフの血が入っているのかもしれない」
「きっとそうだよ!私が間違えてしまったくらいだもの。でもよかった、言葉が分からなかっただけなんだね。
私はてっきり、名前を教えてもらえないほど警戒されたのかと思ってしまった」
「言葉が分かっても、聞かない方がいいかもしれないよ、レゴラス」
クスクスと笑い続ける彼に、首を傾げる。
グロールフィンデルは見事な金髪を掻き上げながら、瞳を細めてレゴラスを見た。
「エルロンドはあの子をとても気に入っているから、近づくには覚悟がいる。あの子の名前はエルリアンというんだよ。
エルロンドが名付けたのだ、彼とケレブリアンの娘という意味で。……喩え種族は違ってもね」
その後、館の主への挨拶もそこそこに、レゴラスは敷地内を散策した。
散策、というか。捜索というべきか。
少し余裕がなくなっているのは、自分でも分かる。彼は気に掛かることをそのままにしておけるような性質ではなかったから、好奇心を隠さずにきょろきょろと辺りを見回した。
その努力は正しく報われて、彼は中庭の黒曜石のベンチで彼女を見つけた。
「……こんにちは、エルリアン。さっきはごめんね」
驚かさないように、今度は共通語で話しかけると、彼女は一瞬目を見張ってからほっと息をついた。
「こんにちは。私こそごめんなさい。言葉が分からなくて……」
「うん、聞いたよ。改めて、私はスランドゥイルの息子でレゴラスという。闇の森から来たんだ」
「レゴラスさん?」
「呼び捨てにしてくれていいよ。私もグロールフィンデルみたいに、エリと呼んでも構わない?」
「はい」
にこ、と少女が嬉しそうに微笑んだので、レゴラスは安堵して彼女の隣に腰掛けた。
「私は君をエルフだと思ってね。それでシンダール語で話したのだけれど、君はエルフではないの?」
「……多分。私は何も持たずにさまよっている所を、グロールフィンデルさんに保護されたそうです。
それ以前のことは、何も覚えていなくって……共通語は少し話せたけれど、それだけ。知識もほとんどなくて」
「ふぅん、不思議な話だね。それでどうして、あの気難しいエルロンド卿のお気に入りに?」
「お、お気に入り!?そんなことないです!それにエルロンド様は気難しくなんかない、とても優しい私の恩人です。
こんなに素性怪しい私をここに置いてくれて、言葉や乗馬を教えてくれて。名前まで付けてくれて……」
「へえ……」
うっとりした瞳で、エリは主の部屋がある方向を見つめる。
なにか面白くない雰囲気を感じながら、レゴラスはそばの樹から伸びる枝に手を伸ばした。
「それに、グロールフィンデルさんは一緒に食事してくれるし、エレストールさんは服や装飾品を贈ってくださるし。
裂け谷の人たちは、みんな良い方ばかりです。アルウェンもアラゴルンも」
「エステル!?」
見知った名前に驚いて振り向くと、エリはきょとんとして彼を見返した。
「知ってるんですか?あまりここには立ち寄らない方とお聞きしましたけど」
「あ、ああ……その名前、本人から聞いたの?」
「??はい。アラゴルンは剣を教えてくれました。……わたし、全然上手くならなかったけど」
「なるほどねえ」
ふう、とレゴラスはため息をついた。
なるほど、これは揃いも揃って姫君にメロメロという印象だ。
グロールフィンデルやアルウェンはもともと人好きのする性格だけれど、軽々しく名を明かさないアラゴルンやあの気難しいエルロンド、顧問長のエレストールまで虜とは。
しかしなんとなく、その理由は分かる。容貌も感情も幼い彼女は、子供の姿でいる時期がとても短いエルフの中ではまるで小動物のように愛らしく映るから。
こんな風に目をキラキラさせて、『あなたは良い人だ』『あなたが好きだ』と真っ向から言われれば、どんな偏屈だって陥落してしまうだろう。
ましてやこの人間らしからぬ雰囲気、不思議な気配。希有なものを愛するエルダールに興味を持たれるのは当然だ。
近づくには覚悟がいる、というのはそういう意味か。
「まあ、私だって好奇心の強さなら負けてはいないけれどね」
「え?」
「いや」
エルフの耳にすら聞こえないくらい小さく呟き、レゴラスはベンチから立ち上がった。
す、と流れるような動作で膝を突いて、新緑の葉を差し出しながら彼女を見上げる。
「では、エリ。私もその『良い人』の中に加えてほしいな」
「……は?」
「私は剣も弓も得意だし、馬なら目を瞑っていても乗れるよ。言葉だっていくらでも教えてあげられる。
食事の時も夢路を辿るときも、君が嫌と言うくらい傍にいさせてほしいのだけれど、どうかな?」
その言葉に、エリは豆鉄砲を食らったような顔をして。
それから、にこにこと無邪気に笑む彼を見つめ、顔を赤くして俯いた。
「嫌と言うくらいは、いやだけど。……傍にいてくれるのはすごくうれしい」
ありがとうレゴラス、と恥ずかしそうに微笑む表情は、花が咲いたように彼の心を明るくする。
それが一時の気まぐれではないことを、彼はそう遠くない日に自覚するのだった。
END.
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