選択する権利は、俺一人に与えられた。
万を超える善良な民衆。日々の生活を営む、平和な都市。
彼らを全て、この世から抹殺する権利。
本当はそんなもの、人が握ってはいけないのかもしれないが、その時の俺は確かに感謝していた。
大義名分の名の下に、彼らの運命が俺の指先に掛かっていることに。
これを知ったら、あのひとは怒るだろうか。哀しむだろうか。
守るべき民間人を殺した自分を、赦さないだろうか?
いつでも、どんな時でも誇り高い軍人で在るあのひとならば、きっとこんな選択はしない。
最後の刹那まで決して諦めず、民を救うために奔走するだろう。
そんな生き方は疲れるだけだと、あのひとに出逢う前の自分なら、割り切れたはずなのに。
「……ま、これで見限られたとしても、俺が欲しいモンだけは残るからなァ……?」
悩んでいる時間などほとんどないことが、この際はむしろ救いに思えた。
俺はすうっとひとつ呼吸をして、指の下で操作されるのを待っているコンソールに、触れた。
◇ ◇ ◇
「……ルル。クルル!」
人込みが行き交う宙港で、待っていた声がかすかに鼓膜を叩く。
目を上げると、遠くても見間違えようのない緋色が、雑踏の隙間から透かし見えて。
俺はくわえていたタバコをそばの灰皿に押し付けると、壁際から身を起こした。
「よ、センパイ。お帰り」
「わざわざすまんな。待っていてくれれば、こちらから出向いたんだぞ?」
前線基地からようやく帰ってきた早々、首を竦めて恐縮する表情に、思わず笑みを誘われる。
俺は専用機を停めてあるエアポートへの出口を指で示して、歩き始めた。
「こんなことくらい、なんでもねえよ。それに他のヤツはともかく、センパイは真っ先に検査しねえと駄目だしな」
「別に、俺だけが悪かったわけでは……」
「嘘つけ。どうせ倒れた他の感染者の分まで、アンタが無理して走り回ってたんだろが」
「う………」
「ったく、何のために医療班と後続部隊がいると思ってんだ?テメエだけでフォローしようなんて無茶すぎんだよ」
「……し、しかし、俺は体力だけは人並み以上だし……それに、おまえのワクチンがあったからな!」
ピクリ、と。
揺れたのは、指先だけで。
「あれはすごいな……それまで食事もできなかった重病人が、一日で歩けるようになったぞ?」
「まあ、病原が機能阻害で、毒素とか身体に残るモンじゃなかったしな。それを抑えりゃ一発だ」
「そういう事情もあるだろうが、いつもながらおまえの薬は良く効く。決して期待を裏切らない」
「……大したもんじゃねえよ」
「そんなことはない。おまえのおかげで皆が助かった、ありがとう」
戦闘ならば慣れているが、伝染病などというものには手も足も出ない、と。
真っ直ぐな笑顔でそう言われて、俺は眩しくて瞳を細めた。
隣を歩く彼の頬に指を滑らせ、唇を近づけて、囁く。
「アンタが生きて還ってきてよかった……」
「クルル?」
「アンタの窮地に間に合って。アンタの生命を救うことができた。俺はそれだけで満足だ」
「……!く、クルっ……!」
ちゅ、とそのまま口づけると、まだ周りにいる人々をちらりと見渡して顔を染める。
それにククッと笑って、専用機のハッチを開こうとした、その時。
「……しかし、よくあんなに早く、必要量のワクチンを確保できたな」
感心したように呟かれて、思わずリモコンを操作する手が、止まった。
顔を合わせていない時で良かった。そうでなければ、間違いなく狼狽させてしまっただろう。
急に息苦しくなった気がして、俺は小さく息を吸い込んだ。
「なんてことねぇよ」
「そうなのか?こちらの医療班は未知のウイルスだと言って、ほとんどお手上げ状態だったが」
「まあ、凡人にゃ荷が重いかもなァ。あれはまだ論文発表もされてねぇ、まったく新種の病原体だし?」
「そうか。さすがに、天才と名高いおまえだけのことはあるんだな」
素直な賛辞が。
悪気のない感謝が。
優しい声音で、背中に突き刺さる。
リモコンが落下しそうになって、俺は思わずぎゅっと手を握りしめた。
「センパイ」
「うん?」
ハッチが開くのをおとなしく待っているあのひとを振り返り、最大限の努力をして、何でもないように。
「ちょっと、中で待っててくれ。ここの管制センターに連絡しとくことがあってよ」
「?通信では駄目なのか?」
「あ〜…別にいいんだけどよ。あんま、公的電波に乗せたくネェこと、だしな」
「……おまえ……もしや、妙なことを企んでいるのではないだろうな?」
訝しげな顔で、また頬を赤らめる彼に、人の悪い笑みを浮かべて。
「妙なコト、なんて考えてねぇぜ?アンタのことならずーっと考えてるがな」
「く、クルル!おまえは、全く!」
「クックッ……悪ぃが、すぐ帰ってくっから。なんかありゃ通信で呼んでくれよ」
それだけ言って、俺はヒラヒラと手を振りながらその場を離れた。
情けねえ、なあ……?
自嘲の呟きが、心の中で漏れる。すぐそこに感じる、気力の限界。
こんな綱渡りのような思いを、いつまで続けるんだろう。いつになったら終わるんだろう。
あのひとは何を知っても、決して俺を責めたりはしない。責めるとしたら、それは俺のことを心配しているだけだ。
だけど決して、俺と同じ所へ堕ちてきたりもしない。
立っている場所が違うことにあのひとが気づかないのは、彼が生まれた時から高みにいて、これからもずっとそこにいるからだ。
天を駆る者に、地を這う者の姿は見えない。だから。
「…………………天才なんかじゃ、ねえよ」
あのひとが、生きて還ってきた。俺が欲しいのはそれだけ。それだけで十分なはずなのに。
肩が震えるのを、抑えられなかった。
「天才だなんて、二度と言うんじゃねぇ」
天才ならば。
いつも豪語していたように、俺がケロン一の天才であったならば。
あのひとも民衆も、どちらも救うことができた。
本部の接収命令のままに、開発中の薬を病人の手から取り上げたりすることなく、全てを助けられた。
そうして、あのひとの隣で誇って在ることができたのに。
「俺はそんな、ご立派な人間じゃねえ……!」
ガツ、と通路の壁を殴った拳が、血の糸を引いて裂傷を作る。
あの綺麗な緋とは違う、澱んだ赤色が堪らなくなって、俺はもう一度叩き付けようと腕を引いた。
しかし、それがもう一度ぶつかる前に、俺の身体はぐいっと強く引っ張られた。
「クルル!いったい何をしているんだ!?」
「……!」
いつの間にか、すぐ後ろにあのひとがいて。
怒ったような、困惑したような表情で、眉を顰めている。
一瞬だけそれを確認して、俺は俯いて顔を隠した。
駄目だ。知られてはいけない。知られるわけにはいかない。
民間人を守るのが役目であるはずの軍が、感染地域より前線を優先して、俺の作った薬を横流ししたなんて。
上層からの密命を無視しようと思えばできたのに、自分の身勝手な都合でそれを甘受したなんて。
あなたを助けるために、無辜の民一万を見捨てただなんて
このひとを苦しめるのが怖い。
このひとから軽蔑されるのが怖い。
あのときすでに発病していた人々が、今どんな状態なのか調べるのが、怖い。
「……なんでも、ねえよ。俺様も、ちょっとイロイロあってなァ…?」
別にこんなこと、作戦参謀としては珍しいことじゃない。一個師団を丸々オトリにして奇襲をかけたこともあるし、侵略する星に民間人を連れていって油断させたこともある。
軍人とはそういうものだ。戦争とはそういうものだろう?
軍が民のためにあるなんて、このひとか、さもなくば新兵くらいしか信じていない絵空事だ。
自他ともに認める腹黒い俺様が、今さら一万人くらい見捨てたって、何をビビることがある?
「くだらねぇことばっか多くて、さすがにウザったくなったんだよ」
ククク、と無理に喉の奥から笑うと、大きくため息をつく音がして、こつんと額が叩かれた。
「バカだな。おまえは」
「……?」
驚くほど近くで呟かれた言葉に、思わず顔を上げると。
あのひとは、予想と正反対の目をしてこっちを見ていた。
全てを見透かすような、優しい、ひとみ。
「おまえが何に苦しんでいるのか、俺などには分からんが……おまえは天才だ。俺が一番よく知ってる」
「……!」
「おまえの判断は、間違っていない」
「……センパイっ……」
「今、そうして苦しんでいることも、無駄ではない」
「………っっ、」
「おまえが自分を疑っても、蔑んでも、俺が知っている。おまえがどんな人間なのかを。……それで十分だろう?」
少し照れながら、でも慈しむように、頬が撫でられて。
彼がいつも武器に結んでいる麻布が、くるりと傷口に巻かれた。
「だから、怖がらずに行ってこい。おまえが一番いいと思うように。俺は先に、おまえの家で待っているから」
おまえの帰りを、待っているからと。
囁いて、あのひとは俺の身体を、きゅっと抱きしめた。
「……………セン、パイ」
もし、俺の命と民衆の命、どちらかを選べと言われたら。
このひとは必ず、民衆を選ぶ。
悩んでも、苦しんでも絶対に途を違えることはない。
「……ラボに、医療プログラムを組んでおいたから。着いたらまず、それで検査してくれよ」
「分かった」
「機密だから、事情は話せねえし……何日かかるか、分かんねーけど」
「大丈夫だ」
でも、それでも。
俺は何度でも、選択し続けるだろう。
割り切れない想いのために。見捨てられない辛さのために。
輝ける途でなくていいから、赦されなくてもいいから、誇り高いあなたのそばでせめて存在していられるように。
「……行ってくる」
そう告げて、センパイから手を離すと、俺はエアポートへの通路に足を向けた。
END. |