あの時、もう私の運命は決まってしまったのだ、と思った。
「こちらの書類は陛下の御座所へ。こちらは騎士長閣下の所へお願いいたします」
「はい、ルセリナ様」
自分につけられた秘書官に対しても、ルセリナの言動は礼儀正しい。
女王直属の特別行政官。彼女のために新設された地位、彼女のために設けられた肩書き。
それは、女王と騎士長というこの国の統治者二人に直接意見を言うことができる、破格の待遇を伴っていた。
ルセリナが望んだことでは、もちろんない。
むしろ、彼女をその地位につけるために幼い女王がどんなに苦労したか、近しい者はよく知っている。
けれど。
「それから先日の報告書は、届いていますか?」
少しだけ憂いを含んだ問いに、部屋を出て行きかけた文官が足を止めた。
「……あの、それが」
振り向いたその表情で、言われずとも答えは分かる。
ルセリナは小さく息をついた。
「そう…ですか」
「あ、あの、ルセリナ様。書類を届けた後、もう一度催促して参ります」
「いえ」
慌てて気遣ってくれる部下に、半ば意識して笑顔をみせた一瞬、
笑ってくれる?
やさしい言葉がふわりと、頭の中に響いた。
「……いえ。私が参ります」
「しかし」
「いいんです、大丈夫」
動乱前には存在し得なかったその地位を、『特権』だと感じる者はこの王宮にあまたいる。
女王や騎士長と親しい彼女に直接楯突くことはないが、腹の中では『反逆者のくせに』と思っている者も数多い。
それらの卑怯な者が、ルセリナに対して密かに行っているのが、職務のサボタージュとボイコットだった。
今までは、他の業務を調整したり期限を遅らせたりして、なんとか切り抜けてきたけれど。
それももう、限界に近い。
「私が直接、説得しに行きます」
「いえ、いけません!」
秘書官はさっと膝をつき、入口を塞ぐように平伏した。
「民の心はまだ、安定してはおりません。どうか、ここは私どもにお任せくださいませ。
失礼を承知で申しますが、万が一込み入った話になりますと、或いは御身に危険が及ぶやもしれません」
おそらく騎士長から言い含められているのだろう、その必死の面持ちを見て。
もう一度、笑う。
「私の地位は、正式に女王陛下より賜ったもの。報告書を催促するのに何も不都合はありません。
何より、これ以上遅れれば、騎士長閣下の御予定に差障りが出てしまいます」
「ルセリナ様……」
「大丈夫。どれだけ困難であっても、取り纏めてみせます。心配しないで」
部下を労り立たせながら、ルセリナはきゅっと掌を握りしめた。
笑ってくれる?
苦しいときも、哀しいときも、嬉しいときも、
わたしの胸に浮かぶのはいつも、あの笑顔。
好きになってはいけないはずの、自分からいちばん遠かったはずの、暖かな笑顔。
それに応えられるように、わたしは笑みを浮かべる。
「それが私の務めです。私はこの役目を、誇りに思っていますから」
あの笑顔のためにできることがあるなら、何も躊躇うことはない。
もう、他の生き方はない。ひとりで幸せに生きていくなんてできない。
笑ってくれる?
だってあのときの笑顔がいつも、小さな花びらのようにわたしの中に舞っているから。
END. |