「……では、もう心配はないのじゃな」
「うん。太陽の紋章は今、遺跡でローレライたちが守ってくれてるよ」
マルスカールの手から紋章を取り戻し、ソルファレナに戻った王子の報告に、リムスレーアはほっと息をついた。
「そうか。……終わった……のじゃな……」
「リム?」
一瞬、王子は彼女が玉座にくずおれてしまうのではないかと思った。
しかし彼女は毅然と姿勢を正すと、そばに控えていた紋章官を振り向いた。
「急ぎ、紋章を封印の間に戻す手はずを整えよ。それが終わるまでは気を抜いてはならぬ」
「は、はい!」
「衛兵も多く連れて行け。くれぐれも油断するでないぞ」
彼女の言葉に紋章官は平伏し、謁見の間を駆け出していく。
それを見送ってから、リムスレーアは王子に向き直ってにこりと笑った。
「兄上、ご苦労であった。兄上に頼るのは情けないと思うたが、これは兄上でなくては成せなかったように思う。
ファレナの民に代わり、礼を言うぞ」
「……うん」
それは、彼女の立場と責任を差し引いたとしても、幾分大人びた笑い方。
少しだけ眉根を寄せた王子に気づくことなく頷き返すと、リムスレーアは広間をぐるりと見渡し、控えている全員に響き渡る声で告げた。
「文官と官吏を呼び寄せよ。国中に触れを出すのじゃ。国難は去った、皆安心するようにと」
途端に広間が騒がしくなる。遺跡から帰ってきたばかりの仲間達もそれぞれ、自分たちの担当する部署の者と打ち合わせを始める。
長い間反乱軍と称され、王宮とは名目上とはいえ敵対する立場を取っていた彼らには、それは新鮮な光景だった。ようやく本来の姿に戻ったのだと、皆が安堵の思いを新たにしていた。
そんな人々が行き交う中、王子はしばらく考え込むと、官吏と話している妹の方へゆっくりと歩み寄った。
「……リム。話があるんだけど」
「なんじゃ、兄上?」
「少し時間を取れないかな?」
そう言うと、リムスレーアは訝しげに彼を見返し、首を傾げた。
「わらわは忙しいのじゃ。今ここではできぬのか?」
「うん。とっても大事なことなんだ、二人でなきゃ話せない」
思いがけない真剣な表情に驚き、言葉に詰まる。
その視線が戸惑ったように揺れた。
「……しかし、のう。戦が終わったばかりで、色々と雑務が……」
「それって、どうしてもリムがやらなきゃいけないこと?」
「そうでもないが、宮殿内がこんな状態では、どの部署も体制が整っておらぬでな。しばらくはわらわがせねばならん」
「ルセリナ」
妹の言葉を遮るように、王子が背を向けたまま少女を呼ぶ。
突然の呼びかけに、少し離れたところから彼らの会話を見守っていた少女は、弾かれたように顔を上げた。
彼が振り向くより早く自失から立ち戻ると、ルセリナは主君の前に小走りで進み出た。
「はい、殿下」
「申し訳ないけれど、少しの間でいいから、リムの仕事を整理していてくれないかな?」
その言葉と表情だけで彼の意図が分かったように、ルセリナの唇が小さく微笑む。
そして丁寧に頭を下げて、彼の依頼を了承した。
「……もちろん、仰せのままに」
「ルクレティア、補佐は任せたよ」
「はい、お任せされちゃいます」
「こ、こら兄上!勝手に話を進めるでない!」
訳知り顔でくすくすと笑う軍師と少女を見比べて、リムスレーアが不愉快げな声をあげる。
それを綺麗に無視して、ミアキスが口を挟んだ。
「じゃあ、私もお手伝いしますぅ〜。皆さんがいなかった間の説明がいるでしょお?」
「ごめんね、ミアキス。リムのそばにいるのが君の役目なのに」
「いいえぇ、いいんですよぉ」
「ミアキス!おまえもか!」
彼女が護衛にすごんでいる隙に、今度は侍従長がおずおずと王子を窺う。
「あの……殿下。あの、お部屋を……ご用意いたしますか?」
「うん、頼むよ。私室じゃない方がいいかな。すぐ用意できる?」
王子が明快に答えると、自信なさげだった侍従長は途端に顔を輝かせた。
「はい、お任せください!」
「では、お飲み物と軽い食事などもご用意いたしましょう」
「お着替えも必要ですね。少し暖炉に火を入れた方がよろしいですか?」
「その辺は任せるよ。できるだけ急いで」
「はい!」
隅に縮こまって黙っていた侍女たちも次々と言葉を掛け、みなが明らかに目的を持ってばたばたと動き出す。
それに反応しきれず取り残された彼女は、むうっとむくれた顔をすると、生来の癇癪を爆発させた。
「なんじゃ、おのれら!わらわをのけ者にして楽しんでおるのか!?
兄上、いったい何の話なのじゃ!」
「部屋に行ったら話すよ」
「………!」
兄のそっけない態度に絶句して、リムスレーアは唇を噛むと、ぷいとそっぽを向いた。
何だというのだ。せっかく戦が終わってもう何の心配もないというのに、何故こんな仕打ちを受けねばならない?
自分以外の人間はみな予想がついているらしいが、一体どんな『大事な話』があると言うのだろう。
そこまで考えて、リムスレーアはぴくりを肩を揺らした。
なんだかとても嫌な『話』が待っているような気がして、少し背筋が寒くなる。
「殿下、姫様。お部屋の用意ができましてございます」
やがて聞こえてきた侍従長の言葉にも、リムスレーアは応えようとしなかった。
奥の間の方を睨んだまま動かない妹を、王子は笑いをかみ殺しながら見て、それから徐にひらりと抱き上げた。
「!!!!」
「案内してくれる?」
「は、はい。こちらです」
「兄上!!一体なんだというのじゃーーー!!」
じたばたと暴れながら、彼女はまるで麻袋のように運ばれていく。
廊下を守る衛兵たちは、礼儀正しく見なかったふりをした。
◇ ◇ ◇
「着いたよ、リム」
「………………」
結局、部屋に辿り着くまでずっと抱えられて運ばれたリムスレーアは、降ろされても至極不機嫌そうにむっつりと黙り込んでいた。
彼らの私室より大分小さいけれど、手入れの行き届いた部屋。先程の言葉の通り暖炉には火が入れられ、色々なものが用意されている。
自分の怒りを無視したまま、すたすたと歩いていって簡素なベッドに腰掛ける兄が憎らしくなって、彼女は『絶対話してなんかやるものか』と思っていた意地を自ら放り投げた。
「話とは、なんじゃ!」
言ってしまってから、少しだけ後悔する。
そんな彼女の癇癪など気にも留めず、王子はぽんと足を投げ出すと、無邪気な笑みを浮かべながら手招きをした。
「あのね。僕とリムは長い間、離ればなれだっただろう?」
「なにを…今更」
「だからね、リムと一緒に眠ろうと思って」
「!?」
呆気にとられて、思わず目をやると、王子は尚もにこにこと笑っている。
自分の危惧したような話ではない様子に内心ほっとしながらも、彼女はふつふつと沸く憤りを抑えられなかった。
「そんなくだらぬことで、わらわの仕事を邪魔したのか!?何を考えておる!」
「くだらなくないよ、リム」
「なんじゃと!?」
彼女の怒声を受け流して、王子は嬉しそうにふわりと笑った。
「もう戦いは終わったんだ。今の僕に一番大事な仕事は、離れていた間の話を聞くこと。
リムのお兄さんに戻ることなんだよ?」
「……………」
当たり前のように言い切る兄を、呆然と見返す。
兄は一体、何を言っているのだろう。確かに離れていた時間は長かったし、再会してからもゆっくり話す時間などなかった。ゴドウィンの脅威が去った今、落ち着いて話そうと思うのも道理かもしれない。
しかし、家族としてはそれで良くても、王族としては許されない。民のためにやるべきことは多くあり、皆が自分を、今や自分ひとりだけを頼りにしているというのに。それが分からないような兄ではないのに。
そう言おうとして口を開くけれど、それはどうしても言葉にならなかった。
代わりにゆっくりと俯き、彼女は小さくため息をついた。
「………しようのない……兄上じゃ……」
口をついて出た台詞に自分で驚いたけれど、それでも。
「わらわの都合など、何も分かってはおらぬ」
「……そうだね」
「わらわは、兄上のように気楽には生きられぬのじゃぞ」
「ごめん」
「本当に兄上は、昔から……」
ふ、と、言葉を止めて。
唇に指を当てて。
一瞬それがわなないたかと思うと、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おいで、リム」
「……っ……っっ」
声を掛けても動かず、突っ立ったまま泣き続ける彼女に近づき、大きすぎる女王冠を外す。
それが合図になったかのようにしがみついてきた妹を、王子はもう一度愛しげに抱き上げた。
ぎゅう、と渾身の力で肩が掴まれて、『痛いよ』と苦笑すると、聞き取りにくい声が『わらわを放っておいた罰じゃ』と応えた。
END. |