「失礼します」
丁寧にお辞儀をして主君の執務室へ入った彼女は、彼が仕事を放り出して窓の外を眺めているのを見つけて、思わず足を止めた。
「……殿下。先ほどの資料をお持ちいたしました」
「うん」
気を取り直して声を掛けても、王子は生返事を返すだけで、執務に戻ってこようとはしない。
ルセリナは書類を机の上に置き、その脇で彼を待った。
いつも、長くは待たない。他の人間ならともかく彼女を無為に待たせておくことは、王子にはできそうにもなかった。
ルセリナにそんなつもりはないのだけれど、今日も彼は気づかれないようため息をついて、無言の重圧に白旗を掲げた。
「……僕がこんなこと、やる必要があるのかなあ」
大人しく机に戻りながら、ついついいつものぼやきが出る。
ルセリナは真剣な目つきになってそれを諌めた。
「殿下がなさらなくてどうされます。陛下をお助けしたいとお望みなのでしょう?」
「それは、そうだけど。あーあ、やっと元のしがない王子に戻れたのに」
「もう、いつもそんなことを仰るんですから」
自分で言って自分で笑う彼につられて、ルセリナの表情も少し弛む。
そのまましばらく事務的な会話が続き、当座の用事が済んで退出しようとするルセリナを、王子は思い出したように呼び止めた。
「ああ、ところでルセリナ。もう一つ頼みがあるんだけど」
「はい殿下、なんなりと」
彼のお願いに、ルセリナはいつも嬉しそうな微笑を向ける。
自分のためにそんな表情をしてくれる彼女を見るのが、彼の目下の関心の一つだった。
そしてもう一つは、最近仕事の手を進まなくしている原因である、単純なのだけれど勇気のいる問題。
王子はごくさりげない口調で、それを告げた。
「今すぐでなくていいんだけどね」
「はい」
「僕のこと、名前で呼んでみる気はない?」
「……………は?」
たっぷり数瞬は間をおいて、ルセリナは小さく首を傾げた。
「殿下……?」
瞬きを繰り返して、彼女の主君を見つめる。
王子は苦笑しながら、すっと席を立った。
「だから。殿下じゃなく、名前で呼んでみるのはどうかなって」
「も、申し訳ありません……あの、仰っている意味が、よく」
すぐそばまで来た王子を見返すと、その視線はもう、明らかに上を向いてしまう。
戦いの間は確か、瞳の高さもそんなに違わなかったはずなのに、と思わず関係のないことを考えていると、王子が至近距離でまたくすりと笑った。
「じゃあ、意味を解き明かすところからお願いしようかな。ルセリナは頭がいいから、きっとすぐ分かると思うよ?」
「あ、あの、殿下?」
「意味が分かったら、答えを考えて。君の答え以外の問題は解決してるから、ゆっくり考えて構わないよ」
「え、それは、どういう…っ」
「ルクレティアにこれ、届けてくる」
ルセリナの慌てぶりを気にすることなくそう言うと、王子はさっさと部屋を出て行った。
後に残されたのは、未だ呆然としたままのルセリナただ一人。
「え?……え??」
彼女の反応が遅れたのは、洞察力に乏しいからではなく、それがあまりにも予想外だったから。
一連の言葉の意味に思い当たった彼女が、まさかと思いながらも一気に頬を染めるのは、そのすぐ後のことだった。
END. |