「失礼します」
仮にあつらえた主君の執務室へ書類を持って入った軍師は、予想に反してすげない態度で迎えられた。
机に向かって一心不乱に書類を眺めているように見える彼は、彼女の挨拶に何の言葉も返さなかったから。
「王子?」
「……………」
「あの、どうかしましたか?」
「……………」
「……はあ」
近づいて覗き込むけれど、彼が見ているのは白紙の書類で、少なくとも目に見える形での熱中要素はない。
普通なら怪訝な顔をするところだが、聡明の誉れも高い軍師はため息をついて、彼のすぐ耳元で呟いた。
「そんなに気になさるなら、一緒に行けばよろしいのに」
「……っ!ル、ルクレティア!?」
びくり、と一気に現実に戻ってきた姿を満足そうに見て、書類を差し出す。
「かなり遠いところへ行っていましたよ、王子。考え事ですか?」
「べ、別に……」
ばつの悪い表情でそれを受け取った彼に、ルクレティアは訳知り顔で微笑んだ。
「たかが数日いないだけでそれでは、先が思いやられますね」
「……………」
「レインウォールも、放っておく訳にはいかないでしょう?今やバロウズにはあの子達しかいないんですから」
「……わかってる」
彼女にはとぼけるだけ無駄だと知っている王子は、大人しく頷くと、あからさまにすねた顔をした。
「僕だって、ついて行きたいのは山々だけど。二人が治めようとしている最初の正念場をぶち壊すわけにはいかないよ」
「まあ、そうでしょうねえ。その判断はご立派だと思います」
滅茶苦茶になった領地の民心を立て直そうとしているそこへ自分が行けば、彼らの忠誠心はことごとく『救国の英雄』に流れてしまうだろう。それに比例して、バロウズへの反感も膨れ上がるに違いない。
それでは、あの兄妹ががんばっている意味が無くなってしまうから。
そう判断して実行しているのは彼の中の公的な部分で、そして私的な部分は、いつもそばにいる少女が離れているのが不愉快でしょうがないらしい。
大人びているのか年相応なのか微妙なところですね、と思いながら、ルクレティアは肩をすくめた。
「王子がお望みなら、策を授けましょうか」
そう言うと、王子は目を瞬かせて彼女を見た。
「戦いが終わったあとも、彼女をそばにおくための」
遅かれ早かれ、この戦いが完全に終われば、彼女は表舞台に出てこなくなるだろう。
それは家門の罪もあるのだけれど、なによりも彼女の性格ゆえのことだった。
他人に対するよりもなお自分に厳しいあの少女は、自分に都合よく考えるということができないのだ。
どういう答えが返ってくるか、多少面白がって待っていると、王子はしばらく考え込んでから徐に顔を上げた。
「……ルクレティア。僕は、常々思っていたんだけどね」
「はい?」
「あなたには到底及ばないけれど、この戦いであなたの策を間近で見ていて、僕もほんの少しだけ学んだ気がするんだ」
「……え?もしかして、王子の策を聞かせて頂けるんですか?」
「策と言えるかどうかはわからないけど」
「ふふ、それは楽しみです」
彼が頷くと、軍師はうきうきした足取りで近づき、そそくさと執務机の脇に廻った。
まるで最重要機密を漏らすまいとするように、わざとらしく声を潜める。
「で、どんな策です?早く教えてくださいよ」
「うん。僕の考えではね……」
「はい」
思わず身を乗り出したルクレティアに、王子は会心の笑みを浮かべた。
「……策なんか要らないんじゃないかな」
彼女は一瞬きょとんとして、それから目を見張って、次の瞬間には思い切り破顔した。
「それは、まあ、そうですね」
「だよね」
くすくすと、二人して笑い合う。
戦が終わり平和になったら、今度は無秩序に混乱した政治経済の再建が待っている。
元老が事実上解体し、王族が3人しかいなくなった以上、王子としての彼も矢面に立たなければならないことは必至で。
そんな中、自分が形だけでも貴族と婚姻を結んで野に下れば、旧貴族と正当な王位継承者である妹との間を繋ぎ留めるだけでなく、離散しがちな旧貴族の統率をも掌握することができる。
俗に政略結婚と呼ばれ、今までは王族の男子が他国に対して果たすべき責任だったそれを、王子は『策』として利用しようとしている。それが軍師にはおかしくて仕方がなかった。
たいそうご成長されましたね、と感想を述べると、彼は先ほどの彼女のように肩をすくめた。
「でも、細かい問題は多いと思いますよ?特にバロウズ家はゴドウィンと並ぶ反逆者ですからねえ」
「軍内部でもルセリナやユーラムは理解者を増やしているし、大丈夫じゃないかなと踏んでるんだけど。
それになんといっても、僕には優秀な軍師がいるし?」
「…………。」
もう一度きょとんとして、それから、一瞬だけ鋭い視線を送る。
それを見事に受け流して、王子は超然と微笑んだ。
この戦いで彼が身につけたのは力や技だけではない。将として振る舞うこと、リーダーとしての義務を果たすこと。そして、今まで誰にも恭順しなかった様々な人材を、力によってではなく自主的に参戦させたのも、彼が芽吹かせた才能だった。
そのひとりである軍師は、しばらくじっと彼を見つめて沈黙したあと、大袈裟にため息をついた。
「……もう。戦が終わったんだから、そろそろ解放していただきたいんですけど」
「まあ、無理だね。僕はしがない王子だし、ルクレティアがいないと何にもできない」
「そんなこと思ってもないくせに。言っておきますけど、私は王国宰相にも総参謀にもなる気はないですよ」
「僕はこう見えても欲張りだからね、たとえリムにだってあなたを渡すつもりはないよ?」
珍しく辟易したような彼女に、王子は笑いながら立ち上がり、胸に手を当てて優雅にお辞儀をしてみせた。
「これからもどうぞよろしく、我が軍師殿」
END. |