「……あっ」
テラスに通じるドアが少し開いているのを見て、階段を登ってきた彼女は小さく声をあげた。
彼のことだから、今夜は城中を見回るのだと思った。
逃げ出さないようにプレッシャーを与えるためではなく、残ると決めた皆の迷いを晴らして少しでも心が軽くなるように、そのために自分の迷いを押し殺して明るく話すのだろうと。
『象徴でしかない僕には、気休めくらいしかできないからね』
聞けば、そんな風に笑って言うのだろうと思っていた。
だから、いつもの時間にはいないと思って少し遅く来たのだけれど、どうもその予想は間違っていたようだ。
そっとドアの隙間から覗くと、それだけで、テラスに立っていた王子は身じろいで振り向いた。
「こんばんは、ルセリナ」
驚きもせずに微笑まれ、やはり見透かされていたのだと少しだけ頬が熱くなる。
それを闇で紛らわせて、ルセリナはテラスに足を踏み出した。
「こんばんは、殿下。お待たせしてしまいましたか?」
別に約束などしていないのを承知でわざとそんなことを言うと、王子は澄ました顔で頷いた。
「うん、少しね。ユーラムとは久しぶりの再会なんだから、もしかして来ないかとも思ったけど……
でも、来なくても良かったんだ。僕がルセリナを待ちたかっただけだから」
「で、殿下!」
今度ははっきりと顔を赤らめた彼女に、くすくすと笑う。
すぐ後ろにルセリナが立つと、王子は視線を前に戻した。
ルセリナも同じように目を向ける。
「………いよいよだね」
「はい……」
その遙か先には、ソルファレナがある。豊かな大地と大河に囲まれた、栄えある王都。
彼らが斃さねばならない者と、守らねばならない者がいる都。
朝日が昇れば、自分たちは進まなければならない。何があっても、何が起こっても、立ち止まるわけにはいかない。
だから。
だからこそ、ルセリナには今日のうちに話しておきたいことがあった。
この国を守護している紋章のような、熱く激しい太陽が昇る前に。
「殿下」
話しかけると、王子はうん、と頷きながら、彼女の手を取って石畳に座り込んだ。
同じように腰を下ろしながら、心を決める。
「明日からの戦いで、この動乱は終わると思います」
「うん」
「殿下は姫様を取り戻されて、ファレナには平和が戻るでしょう。それは間違いなく起こる未来です。……ですが」
繋がれたままの手を無意識に退きながら、ルセリナは静かに俯いた。
「こんなことを殿下に伺うのは……筋違いだと思うのですが……」
「どうしたの?ルセリナ」
「……戦いが終わったら、バロウズには、罪を償うために……何ができるでしょうか」
俯いていても、王子の視線が注がれるのが分かる。
ルセリナはそれから逃れるように瞳を閉じた。
「バロウズの罪のせいで多くを失った民のために、全てを賭して償う、それは分かっています。
兄もそう申しておりましたし、そのためのどんな覚悟もできております。ですが」
「ルセリナ?」
「……ですが、もう……私にできることはそれだけなのでしょうか……?」
こんな言い方では分かるわけがない、と思いながらも、彼女にはそれ以上語ることはできなかった。
恐れ多いことを考えているのは自覚している。償うと言いながら、自分の大それた不安を口にすることを恥じてもいる。
けれどそれは、今でなければもう、聞けないと思った。
太陽の威光はもちろん、黎明も黄昏も入り込めないこの闇の中でしか。
しばらく沈黙が続いた後、小さく笑う声が聞こえて、ルセリナは思わず瞳を開いた。
王子の整った顔が、驚くほど近くにある。
彼は声を忍ばせながら、おかしそうに唇に指を当てた。
「そうだね、ルセリナ。きっと君は嫌だろうけど、バロウズ家にはひとつだけできることがあるよ」
「え…?」
「それは君たちにしかできない。もちろん、そうするかどうかは君の自由だけど」
「どういう……ことでしょうか」
「ユーラムは、君のためにいることができる。君への償いとして、家族として君を支えていける」
そのまます、と立ち上がって、王子は先程のようにゆっくりと手を差し伸べた。
「そして、君は僕のためにいることができるよ」
「……!」
「僕に何かを償わなければならないと思うなら、そうしてほしいな、ルセリナ。
戦いが終わっても、ずっと僕のそばにいて。……もっとも」
王子は呆然と見上げる彼女に照れたように笑ってから、わざとらしく真顔を作ってみせた。
「君がどう答えても、僕には君を離すつもりはないんだけれど」
王族というのは元来わがままなものなんだからね、と。
その時、某所から帰る途中の女王騎士がふとテラスにいる人影に気づき、いつも堅く笑みを作っているような印象しかない少女の『笑顔』を目撃し、遠目にも見とれてしまったというのはまた、別の話。
END. |