幼い頃は、本当に大好きだった。
少し調子に乗る所もあったけれど、なんとなく雰囲気の堅かった上の兄と違って、いつも私のそばにいてくれた下の兄。
お約束のように『私はお兄様と結婚するんだ』なんて思っていた、あのころ。
もう決して戻らない過ぎ去ってしまった遠い日々。
「……………」
「……………」
沈黙は長く続いていた。
レインウォールを出てから、道なりに歩いてすでに30分ほど。
私はめったに城を出ないのであまり実感はないけれど、普段の殿下のお話を聞いていると、それは珍しいことなのではないかと思える。
ビッキーさんから借りた手鏡があれば一瞬で城へ帰れると、いつも殿下は感謝しているようだったから。
「……………。」
でも、そんなことを聞く気にはなれなかった。むしろ、黙って前を歩いてくれることが、彼の思いやりなのだと思った。
大好きな兄だった人。愚かではあったけれど、それでも可愛がってくれた父だった人。
そんな人たちを、『野心の報いだ』などと断罪する権利など、私にはない。
けれど。
王子殿下の臣下として、そしてバロウズ家の罪を背負う者として、それはどうしても言わなければならないことだった。
反逆の徒である兄に、殿下を侮辱させたままでいさせることはできなかったから。
「………?」
ふ、と。
目を閉じたまま歩いていた私の手に、何かが触れた。
驚いて見ると、三歩先を歩いていたはずの殿下がすぐそばにいて、前を向いたまま私の手を引いている。
その暖かさを感じた瞬間、どっと感情が迫り上がってきて、私はそれを抑えられなかった。
「……っ、…ぅ……」
声を出さないように唇を噛み締めるけれど、それは無駄な努力で。
我慢していた分、情けないくらいの嗚咽が喉を震わせて、私は空いている方の手で喉元を押さえた。
お父様、お兄様、と繰り返す心の叫びが、せめて外に漏れないように。
俯いたまま、ついに立ち止まってしまった私に引っ張られて、殿下もゆっくりと歩みを止める。
「……やっぱり……だめ、だね」
そうして、彼ははじめて、ぽつりと呟いた。
びく、と思わず背が跳ねる。もしかして、自分も見限られてしまったのだろうか。
それも仕方ないと思うけれど、でもここで殿下に捨てられたら、私はバロウズ家は罪を償う努力すらできなくなってしまう。
それだけはいやだ、土下座をしてでも懇願しようと、見苦しくなっているだろう顔を上げたとき、遮るようにふわりと体が包まれた。
「……で…ん、か……?」
すぐ目の前に、王家でよく使われる紋様の服地。片耳で揺れる耳飾りが、驚くほど近くで透き通った音を立てた。
固まった私を抱きしめたまま、彼はもう一度呟いた。
「このままにはしておけない」
「……?」
「レインウォールに戻ろう。もう一度、ユーラムと話してみるよ」
「!」
その言葉に、私は一瞬絶句した。
そんなことは許されない。こんな、泣き落としで殿下のご判断に泥を塗るようなことは、許されていいことではない。
慌てて体を離そうとする私を更に強く抱き竦めて、彼は小さく首を振った。
「もし彼が僕たちのところに来たら、君にとっても彼にとっても辛いことになるかもしれない、と思ったけれど。
でも、それはきっと、間違っているんだ」
「殿下!あんな兄に情けを掛けてはなりません!」
窮屈な腕の中で、どうにか視線を上げると、殿下が諭すような表情をして私を見ていた。
「ルセリナ。誰を許せとか、何を認めろとか、僕には言えない。謝ったって罪が消える訳じゃないのもわかる」
「………っ」
「でも、君が一族の罪を背負い込もうとしていることが、彼の一番の重荷になっていることもわかるんだ。
自分のせいで大切な妹が苦しんでいるのに、自分は安全な所に逃げている。助けてあげられないどころか、余計に苦しめてしまう。
そういう気持ちは……僕にはとても、よく分かるから」
はっと目を見張る私に、微笑んだままで。
「だから彼を迎えにいこう、ルセリナ。しなければならないことがあるなら、一緒にしよう。
逃げていても、嘆いていても何も始まらないと、僕は知ってる。それを彼に伝えなくちゃ」
とうさまに謝るなら、一緒に謝ってあげるよ
ひとりがさみしいなら、ぼくと一緒にねよう
幼い頃、兄が口癖のように言っていた言葉が、耳に聞こえた気がして。
私は思わず、強く目を瞑った。
ひく、と自分がしゃくりあげる音が、まるで遠くにあるように感じた。
「……でも……でも、殿下にそのように言っていただいても、兄は目を覚まさないかもしれません……」
しばらく後、私が困ったようにそう言うと、彼はいたずらっぽい顔で私の頭を撫でた。
「あれ、普段はおかしいほど信用してくれるのに、今日はそうじゃないんだ。僕のことが信じられない?」
「そ…そんなことは!」
「いつもみたいに『殿下の仰せのままに』って笑ってほしいな。そうしないと、間違っているような気がしてしまうから」
「……殿下……っ」
いつもの毅然とした瞳。先を見晴るかす光。
それがいつになく優しく見えて、私は新たに滲む涙を隠せなかった。
私の頬に零れた雫を指で拭いながら、殿下はもう一度笑って、小さく囁いた。
「いつでも一生懸命に使命を果たそうとしている君を、僕は助けたい。けれどそれは、兄としてではないから」
「……え……」
「兄としての役目は、彼に返すよ」
「え、あ…っ」
それがどういう意味なのか訊きたかったけれど、そう思った時にはもう、彼は私から離れていて。
でも、繋がれたままの掌は、進むべき道を示してくれている。
それだけでいい、と思い直して、私は口を衝きかけた言葉を飲み込んだ。
「行こう、ルセリナ」
昔の兄のように私の前に立って、私を呼ぶ王子が、このひとであるだけで
ただそれだけで、何にも負けずに生きていける気がしたから。
END. |