『元気を出して下さい』
その言葉が正解だったなんて思えない。
むしろ、一番よくない言葉を選んでしまったと後悔した。
苦難の末、ようやく触れ合える距離まで辿り着けた妹を奪われて。
長い間、兄妹同然で育ってきた少女を傷つけられて。
その原因が、ずっと一緒に戦ってきた叔母の裏切りだったことを、知らされた彼に。
そんな軽薄な慰めを言う権利なんて、誰にもないと思うのに……
「………………殿下」
皆が眠りについた静かな夜更け。
いつもなら、こんな時間でもかすかな物音や心地よいざわめきは聞こえてくるのだけれど、今夜の城は誰もいないかのような静謐に満ちていた。
城内に、暗く冷たい霧のような沈黙が降りている。
その中で、彼はひとりテラスに立って、空も水も森も見分けのつかない濃い闇を見つめていた。
躊躇って、待ってみて、このままでは身体を壊してしまうと思い声を掛けても、彼は振り向こうとはしなかった。
二度呼びかけることはできそうにもなくて、数歩後ろで立ちつくす。
しばらくして、このままでは自分の身を盾にしているだけだ、と気づいて踵を返そうとしたとき、小さく息を吐く音が聞こえた。
「…………ごめん、ルセリナ」
その言葉に泣きたくなったけれど、私は奥歯を噛んで堪えた。
本当に泣きたいのは、私じゃない。
答える代わりに、一歩だけ足を踏み出す。
すると、気配を感じたかのように、彼は肩越しに振り向いた。
「大丈夫」
にこ、と微笑む笑顔はいつもと変わらない。
穏やかで優しいのに、凛と先を見つめる瞳も変わらない。
けれど、薄曇った月の光は彼の表情に影を落として、脆い影絵のような危うさを浮き彫りにしていた。
「大丈夫だよ、ルセリナ。僕はわかってるから」
「殿……下?」
「あの人は裏切ったんじゃない。そんなことができる人じゃない、それは僕が一番よく知ってる」
ふと脳裏を過ぎる、屈託のない笑顔。
本当に彼を思いやっているのが分かる態度。
「なにか、理由があって……それが一番良いって思ったからそうしたんだ。きっと。
それが何かは、僕が未熟だからわからないけれど」
「そんな、殿下」
「大丈夫。僕もリムも、……リオンも、生きてる。少し先に延びただけだよ」
名前を呼ぶしかできない私に笑顔を向けたままで、殿下はすっと視線を逸らした。
「あの人がどう思っていても、何をしても、僕は迷わない。
ゴドウィンの手からこのファレナを解放して、民を平和に導いて、……そして」
それらは、立派で崇高だけれどどこか原稿を諳んじているような台詞で。
淡々と話す瞳には、昏い光が灯っているような気がした。
「そして、ちゃんと即位したリムを父や母の代わりに見守って……あの子の支えに……なれるような」
「殿下!いけません!」
ふ、と、殿下の体が僅かに揺らぐ。
目の前は深い湖。彼がそこに墜ちていくような錯覚に囚われて、私はとっさにその腕を強く引いた。
どさり、と闇夜に響いた音と衝撃は、他人事のようだった。
「兄に……戻るんだ……」
すぐそばに倒れ伏していなければ聞こえないくらい小さな呟きが、俯いた唇から漏れる。
私は無礼も忘れて彼の肩に手を掛け、顔を覗き込んだ。
「殿下!お怪我はありませんか!?」
「大丈夫……だと思う?」
「は!?」
「ルセリナ、僕はちゃんと笑えている?」
「………!」
「指揮官として、軍の象徴として、相応しい態度が取れていると思う?」
見た目では全く分からなかった震えが、指先から伝わってくる。
無意識なのだろう、絶句した私の掌を片手で掴んで、殿下は空中を見据えたまま辿々しく言葉を継いだ。
「僕もリムもリオンも、それからルセリナもルクレティアも生きてる。けれど、今日死んだ人もたくさんいて」
「僕は王子として、ファレナを救わなくちゃならない。でも、僕が本当に願うのは、リムを助けることだけで」
「どんな正当な理由があっても、僕の目の前からリムを連れ去った人を、許す気になんかなれなくて」
「そんな僕が、みんなの指揮官なんて言えるのかどうか……わからないんだ……」
それはきっと、他人には聞かせるつもりのない言葉。
いつもなんでもない顔をして笑っている彼が、この動乱の初めからずっと思い悩んでいたことに違いなかった。
私は挫けそうになる心を叱咤して、視線を遙か彼方に移した。
「…………殿下……私などが殿下のお気持ちを理解することなど、到底叶いませんが……」
もうすぐ夜が明ける。いつの間にか、ほのかな薄明が地平を覆い始めていた。
「殿下は、兄君として、姫様の御身だけでなく御心をも救おうとなさっているのだと思います」
「……………」
「姫様は聡明で慈悲深いお方です。姫様がここにいらしたら、きっと殿下のお気持ちを嬉しく思われるでしょう。
殿下は姫様をお救いするために、そのためにファレナを救おうとなさっているのです。私たちはそれで十分です」
「ルセリナ」
「姫様をお救いなされませ、殿下」
自分が笑えているかどうか分からない、というのはこういうことなのだろうか。
頬が攣れて、唇が震えたけれど、私は暁天の光から目を離さなかった。
「それが、あなたの下に自ら集まった民の、ただ一つの願いなのですから」
なんとかそこまで言い切ってから、私はそっと手を離し、何か暖まる飲み物を持って参りますと告げてテラスを後にした。
戻ってきた頃にはきっと、この空いっぱいに眩い光が満ちあふれているだろう。
そして、その輝きを従えるようにして、朝日の中に毅然と立つ王子の笑顔が見られるだろう。
どんな困難でも、彼は決して負けることはないと、信じる。
私たちは、彼の願いが叶うことを疑ってはいないから。
END. |