「…………?」
あの方の声が聞こえた気がして、私は薄暗い部屋の中で身じろぎ、立ち上がって窓に近づいた。
眼下に広がる青い湖水。そのほとりの船着き場に、何人かの船乗りたちが集まっている。
そしてその中に、打ち合わせでもしているのか時々船を指さしながら、親しげに話し込んでいる彼がいた。
王子などという肩書きには到底似合わない、姿。
「……あ、っ」
ふと、何かに気づいたように彼が顔を上げて、目が合った。
思索から抜け出し、急いで笑って目礼する。けれど彼は、ほんの僅かに眉を曇らせて、物言いたげな顔をした。
私は彼にそんな表情しか、させられない。
あそこにいる少女のように屈託無く話すことができたら、彼は笑ってくれるだろうか。
常に彼を守っている少女のように共に戦うことができたら、彼は信頼してくれるだろうか。
「……………」
私はもう一度頭を下げると、窓から離れてベッドの端に腰掛けた。
そんなことは、私には考えることすら許されない。
この国に混乱と悲劇を招き、ついには彼の父母をも奪った一門に連なる自分。
家族の企みに気づきもしなかった私は、今、その罰としてここにいるのだ。
そっと息をついて、小さく笑う。
『笑ってほしい』それが唯一、彼から望まれたことだったから。
その時、ふいにノックの音がして、外から私を呼ぶ声がした。
「は、はい……え?」
応じて立ち上がりかけた身体が、静止する。
開いたドアから顔を出して、入ってもいいかなと尋ねたのは、先程まで外にいた王子殿下だったから。
「……あ…………は、はい、どうぞお入り下さい」
気が抜けたように答えた私は、殿下がそばに来て初めて自分が座ったままなのに気づいたが、立ち上がる前に片手で制されて抗えなくなった。
混乱しながら見上げる私の前に立ち、彼は少し前屈みになって言った。
「眠るといいよ」
「……は?」
そのいつになく真剣な表情を見、深刻な話なのかと身構えていた私は、思わず間抜けな声をあげた。
言われた意味が分からなくて、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
殿下はますます真面目な顔になり、内緒話をするように声をひそめた。
「ずっと顔色が良くない。レインウォールを出てからあまり眠ってないだろう?」
「……あの、殿下……お気遣いいただくのは恐縮なのですが、私は元々こういう顔色ですので……」
「君こそ、気遣ってくれるのは嬉しいけど、嘘はだめだよ。僕は邸にいたころの君を知ってるんだから」
「……………」
「ね」
思わず黙り込んだ私に、殿下は秘密を見つけた子供のように片目を閉じてみせた。
「そんな……そんなことまで、……殿下」
知っていてくれた。見ていてくれた。
あんな短い期間、しかも彼を利用しようとした貴族の娘でしかなかった自分を。
私が俯くと、殿下はくすりと笑って隣に腰掛けた。
「仕事の方は、さっき話してきたから大丈夫。ルセリナは有能だから、ついみんなが仕事を頼んでしまうけど」
「……いえ……私は、そんな」
「だから、ルセリナが倒れでもしたらみんな困るんだ。もちろん僕も」
「え?」
その言葉にふと顔を上げた時、殿下の手が伸びてきて、とんと私の肩を押した。
「だから、少し眠ってくれないかな、ルセリナ」
僕のために。
「……………」
呆然と彼を見つめながら、とさりと後ろに倒れる。
もし誰か来ても追い返しておくよ、という言葉と共に掛けられたショールで視界が遮られたのは、偶然ではないのだろう。
そのまま、沈黙が流れる。
黙っていると、一層濃くなった闇に自分が同化していくような気がして、つい疑問が口をついた。
「殿下……あの、……何故、あの時ハウド村に行かれたのですか」
「え?」
「兄が……何か策を弄していることは明白でした。他に知られないようわざわざ私に宛てて、少人数で来いなどと……
なのに、大切な御身を危険にさらしてまで何故、卑怯な兄の罠に出向いたのですか?」
兄を憎んでいるわけではない。
父を恨んでいるわけでもない。
けれど呪わずにはいられない、自分の中の血。
言葉を切った私に、殿下が息をついた音が聞こえた。
「……ルクレティアに、言われたんだ」
「……え?」
「僕が迷うと、死ななくてもいい仲間が死ぬ。だから迷うなって」
「……………」
「だからもう、迷わない。ハウド村に行ったのも、そうした方がいいと思ったから」
「でも」
「バロウズ卿やユーラムが何をしようとしているのか、少しでも調べておきたかったんだ。
おかげで君には辛い思いをさせてしまったけど」
「……!」
悪かったと思ってる、ごめん、と小さく謝る声を聞いて、私の中で感情がぐるぐると渦を巻いた。
謝るのは私の方。償っても償いきれない罪を背負って、私はここにいるのに。
なのに、こんな状況ですら、どうしてこの方はこんなことを言うのだろう。
「殿下は……殿下は、ご自分の血を、境遇を、お嘆きにはならないのですか……」
それは、加害者が被害者に問うてはならない問いだった。知らず声が掠れ、体が震える。
それに対する彼の答えは、分かっていると思った。
『それが王子としての責任だから』
『はじめから覚悟はできている』
彼ならば、そう答えると思った。
けれど。
「そうだね……もちろん、辛いし苦しいと思うよ」
彼は驚くほどあっさりと肯定して、言葉を続けた。
「でも、それを表に出さないのが僕の仕事だから」
王位を継ぐ権利も戦いに勝利する才もない自分が、唯一できるのがそれだから、と。
答えた声は、今までに聞いたことがないほど哀しげなものだった。
「殿下……」
不遜なことも不謹慎なことも承知していてなお、それを私に聞かせてくれたことが、嬉しくて。
レインウォールを出てから流すことのできなかった涙が、一粒だけこぼれるのが分かった。
そっとショールの端から覗くと、彼はじっと窓の外を見上げている。
薄暗い部屋の中で、それでも俯かず光に向かう王子。
再生の力を持つ黎明の紋章を宿した、私たちの暁の明星。
この方は、決して恨みや不遇を晴らすために戦っているのではない。
女王となるべき妹姫を、家族を、国を、そして私たちを導くために起った方なのだ。
「さあ、話は終わり。おやすみルセリナ」
「……申し訳、ありません……」
もう一度ショールを被ると、私は緩やかな微睡みに身を委ねた。
もし、目が覚めたとき殿下がまだそこにいたら、もう血を疎むのはやめよう。
誰に赦されなくても、私にはできることがある。
彼にこれ以上心配をかけないこと。軍の一員として、彼の意志を支えること。
たとえ僅かでも、何もできないよりはずっと、いい。
最後の意識を手放した瞬間、あたたかい手が私の頭を撫でた気がした。
END. |