「ご機嫌はいかがですか?」
突然掛けられた声に、ベルッチオは驚いて顔を上げた。
普段であれば、その程度で動じるような男ではない。けれど、ここは私有地の中のプライベートな別邸で、屋敷の内外には多くの部下が配備されており、闖入者が現れるとは思っていなかったのも事実だった。
目に見えない気配を素早く探って、他に誰もいないのを確かめてから、彼は笑顔で首肯した。
「悪くはない」
「それは喜ばしいことです」
「まあ座れ。あいにく酒はないが、用意させるか?」
「いえ、貴方と同じもので……失礼いたします」
小さく会釈をして腰掛けるのに、『その言葉は敷地に入る前に聞きたかった』とからかいながら茶を淹れる。
ほのかな香気と温みが部屋に漂い、お互いがその味に満足した顔を見せたところで、ようやくベルッチオが水を向けた。
「ところで、どうやって忍び込んだ?」
「人聞きの悪い……きちんと玄関からお伺いしましたよ」
「見張りがいただろう?まさか荒事にはしていないだろうな?」
「まさか」
「それは良かった。ただでさえ部下たちはお前さんを疎んじているからな、これ以上は俺でも抑えられん」
「疎まれて、いますか。……胸がふさがる思いがいたします」
全く気にしていない風に言って、こくりと喉を潤す。
厚いサングラスの奥でじっとそれを眺めながら、ベルッチオは心中で舌打ちした。
目の前で穏やかに茶をすすっている麗人の素性は、相変わらず知れない。それどころか爵位も財産も、公的機関から折り紙はつけられても人の記憶や記録には残っていないのだ。
そこから導き出される答えは唯一つ完璧な身元の改竄。
しかし、市井の調査会社ならまだしも政府諜報室まで欺くのに、一体どれほどの資金と人脈が必要だろう。それを築くのにどれほどの犠牲を払ったのだろう。
過去も含めて、彼に関する情報は全くと言っていいほど得られていなかった。
ベルッチオが知っているのはただ、彼が自分を降伏させるためにここへ来たということだけ。
「で。用向きは?またいつもと同じか」
「はい」
いっそ清々しく返されたのに、苦笑が浮かぶ。
思わず言葉遣いがゆるむのを感じたが、止めようとは思わなかった。
「アンタもしつけえな……シマを空けるわけにゃいかねえって言ってんだろ」
「ええ、ですが私も諦めるわけには参りませんので」
「大体、アンタはなんで俺に拘るんだ?こんな無理を通してまでやる価値はねえだろう。
奴に恨みを持つ人間なんざ掃いて捨てるほどいるし、アンタが欲しがる力を持ってる人間も少なくないはずだ」
「ですが、その二つを併せ持った方はそうはいません」
さらりと受け流した言葉に、ベルッチオが一瞬鼻白む。
その隙をついて、伯爵は花が咲くようにふわりと笑った。
「それに、私はそういったもので貴方を見込んだわけではないのです」
「……………」
「私が選んだのは貴方だけ。貴方の代わりはいないのですベルッチオ様」
「……………」
瞳と瞳が交錯する。
そうしてしばらく見つめ合った後、ベルッチオはため息をついて、大げさに肩をすくめた。
「……アンタもなあ。分かって言ってるんだかどうだか……」
「?」
「俺が悪党でなくても、こんな状況でその台詞はな……アンタみたいなべっぴんさんが口にしていい言葉じゃねえぜ」
「は?」
べっ、ぴん?と小首を傾げる伯爵にもう一度息を吐きながら、手を伸ばす。
「……なんでも聞いてやりたくなっちまうだろ」
藍の髪が指先に絡んで、やがてするりと零れ落ちた。
END.
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