「僕には、幸せになってほしい人がいるんです!」
少年が勢い込んでそう叫んだとき、傍に立った男の中で、ぐるりと巡る心地がした。
もう体内を流れもしない血液の代わりに、何か熱いものが巡る。
何故。
この者は、こうも愚かなのか。
第三者に向けられた毒で倒れ伏し、自分が解毒剤を与えなければ命を落としていた少年が、他人のために憤っているのが不快に思えた。
彼は目の前にあるものを、良いものも悪いものも当然のように享受し、その結実を別の者に投げ渡す。
裏に隠された悪意も陰謀も懐柔も見ず、ただ思うまま気まぐれに。
それは無垢という名の、絶えざる暴挙でしかなかった。
「アルベール……」
彼が名もない15歳の少年であったなら、それでもよかったかもしれない。
その辺りに転がる石ころのように、黙殺してしまえたかもしれない。
昔は自分とてそうだった。世の善良なるを信じ、友を信じ、傲慢ではあっても純粋に他人を思うことができた。
けれど。
「アルベール。今はお体を休めてください。貴方の身に何かあったらと思うと、私は気が気ではありません」
彼には、彼だけにはそれは赦されない。
自らの咎でなくとも、罪を贖うために存在しているこの少年には。
「貴方は……私にとって、とても大切な方なのですから……」
伯爵がベッドの脇に跪き手を取ると、少年は頬を赤らめて、視線を逆に逸らした。
「あ……い、いえ、大丈夫です!苦しくもありませんし」
「いけません、まだ無理をなさっては。さあ、もう少しだけ薬をおあがりなさい」
「いえ、もう……本当に大丈夫ですからっ」
そう言ってこちらを見ようとしない彼に、伯爵はクッと笑って。
片手を繋いだまま薬液を口に含むと、淀みない動作で彼の顔を引き寄せ、静かにくちづけた。
「……!!」
ビクリ、と肩が震え、至近で目を見開く気配がする。
構わず薬を流し込む。飲み込む術も忘れたように硬直している口内に舌を差し入れると、それから逃げるように喉が鳴った。
そのまま、最後の一滴を受け入れるまで、ゆっくりと掻き回す。
「……っ……ん、ぅ」
塞がれていた吐息と一緒に、赤面するような喘ぎが漏れた。
ふ、と。
伯爵の脳裏に、クリーンで誠実と讃えられる大統領候補の馬鹿面が浮かぶ。
あの男は、他の二人とは違って子を大切にしているらしい。
その息子が、15の身空で男遊びをしていたら、どう思われるだろう。
いや、遊びではなく。まるで売女のように男に媚び愛欲をねだる同性愛者だと知れたら、どうなるだろう。
それが知れ渡り、失脚したあの男が息子を問いつめて尚、彼が父親より相手を選んだらどうなるだろう。
手塩に掛けて育ててきた最愛の息子が、自分より自分を陥れた復讐者を愛したらどんな気持ちがするだろう?
私にはそれができる。
籠絡して、洗脳して。
凌辱して、調教して。
裏切り、裏切らせて。
私のために命をも絶つほど隷属させたら。
あの男が、心の離れた息子のために命乞いをする表情は、どんなにか悲嘆と絶望に満ちているだろうか?
それは甘美な誘惑だった。
今や復讐に対して喜びなど見出さないはずの心を、動かされるほどに。
「……………。」
つ、と指が無意識に彼の胸元に伸びた。
安むため既に寛げられているシャツの隙間を、確かめるように探る。
途端に、少年の体が引き攣ったように戦慄いて、肩を掴んだ。
「……ぁ……」
弱々しい力に逆らわず、押し返されるように体を離すと、少年は小さく震えて彼を見返した。
辛うじて行為の意味が分かったようで、目が驚愕と怯えを含んでいる。
その瞳をしばらく覗き込んでから、伯爵は眉根を寄せて顔を伏せた。
「……申し訳…ありません……」
「あ、」
「貴方のような純粋な方に……このような姿、見せるべきではありませんでした。心よりお詫びを」
「は、伯爵」
「どうぞ、お体に差し障りがなければお帰りください。貴方はもう、私に近づかない方が良い」
「そ、そんな!」
『この世で僕だけが唯一、伯爵の気持ちを理解できる存在だ』
少年の頭の中に、つい先程聞いた勝ち誇るような高笑いが響く。
あれはこのことを言っていたのだろうか。そうだとすれば、思わず退いてしまった自分はもう、その資格はないのだろうか?
いや、と、少年は急いで首を振った。
そうではない。自分は拒絶したのではなく、驚いただけだ。これだけで彼の傍にいられなくなるなんて冗談じゃない。
少年は意を決して、懺悔するように項垂れている彼の頬に手を伸ばした。
「伯爵……そんなこと、仰らないでください。僕は、僕にだって、伯爵のお気持ちは分かるはずです。
いえ、分かりたいと思います。だからどうぞ、教えてください」
「アルベール…?」
「……後で、父と母に……具合が悪いので今夜はこちらでお世話になると。……伝えてもらえますか?」
僕は、このひとの傍にいたい。このひとをもっと知りたい。それだけが、真実。
きゅ、と目を瞑ってそう告げると、伯爵はしばらく沈黙した後、掠れるような低い声で囁いた。
「アルベール……これは、貴方と私だけの……秘密です」
今夜その言葉を聞くのは、二度目だった。
◇ ◇ ◇
「ん……」
真白い光が、辺りを包む。
いつもと違う角度で瞳を刺すそれに、少年は混沌とした微睡みから意識を浮上させた。
「……?」
肌触りの違うシーツ、匂いの違う枕。
目を開ける前からいろいろな違和感を感じながら、それでも睡魔の誘惑から逃れられずにいた少年は、ひんやりとした感触に触れて思わず頬をすり寄せた。
何故かいつもより体温の高い肌に、それはとても心地良かったから。
「そんな風に私を試すものではありませんよ」
「!??」
バチ、と一気に目が覚める。
状況を判断する前に飛びすさった彼は、勢い余って広いベッドから落ちかけた。
「う、わ!」
「おっと」
シーツを巻き込みながら、大理石の床に激突しかけた体を抱き留めると、腕の中の少年は時が止まったように固まった。
「アルベール?」
「……は」
「大丈夫ですか?お怪我はありませんか」
「は、は、い」
乱れた前髪をそっと掻き分ける。答えながらも視線は全く定まらず、意味もなく身じろぎして距離を置こうと苦心している様子が見て取れた。
初々しい、というよりも、痛々しい。
ぎくしゃくと遠ざかっていく彼に内心苦笑しながら、伯爵は少し大げさに憂いの表情を浮かべた。
「……もう……私のことなど、お嫌いになってしまわれましたか……?」
「ち、違っ…!」
少年はまん丸な瞳で無遠慮に見上げ、継いで泣きそうな顔で逡巡して、またもぞもぞと戻ってくる。
今度は内心でなく苦笑して、届くところまで帰還した手を取ると、赤い顔がますます赤くなった。
「アルベール」
「は、はいっ!」
「貴方は、私にこんなことをされても、私を想ってくださるのですか?」
「……そういう、仰りようは……ずるいです。分かって言っているのでしょう?」
ぽそりと呟いて、きゅっと手を握り返して。
「何があっても、あなたは僕の……大切な方なのですから」
柔らかい髪を肩口に感じながら、伯爵は静かに目を閉じた。
「ご両親が心配しておられるでしょう。名残は惜しいですが、そろそろお帰りになった方がよろしいですね」
「はい、そうします。……あの、またお宅に伺ってもいいですか?」
「ええ、勿論です。私と貴方の仲ではありませんか」
それを聞いて、照れ臭そうに微笑った少年のタイを直しながら。
「貴方には、私が。私には貴方がいてくだされば……それでいい」
どうしてそんな言葉を掛けてしまったのか。
籠絡されるべきは少年の方だというのに。
「貴方さえ良ければ、今宵も屋敷までお迎えに参上します。私のアルベール」
微かな矛盾を振り切るように囁いて、伯爵は彼に小さなキスを落とした。
END.
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