【主劇】小娘
───や、やばい……。
これは、どう考えても、やばい。
「あん娘は何者でしょう。とある武家の息女っちこっですが、そいにしては言動がおかしくはあいもはんか?」
「私も常々思っておりました。女子の身で異国語を話せるなど……異人と通じている、ということも」
「いや、それを言うなら幕府の間者、かもしれませぬ。隠密は異人を探るためにえげれす語を学ぶと聞き及びます故」
だんだん白熱する議論を聞きながら、わたしは廊下の隅で身を縮めていた。
───どどど、どうしよう。
早めのお風呂をもらおうと藩邸の廊下を歩いていたら、中座敷に近い部屋のひとつで、ややこしそうな話が聞こえてきた。
すぐに立ち去ればよかったんだけど、武家の娘って言葉につい足を止めてしまったのが間違いだった。
それは、案の定わたしのことで。
しかも、話の内容はかなり不穏。どう聞いても歓迎されてる風じゃない。
大久保さんは何も問題ないって感じで澄ましてるけど、やっぱり、わたしみたいな身元の知れない女の子がお世話になってるのはおかしいんだ……。
突然突きつけられた心苦しさに、どうしていいか分からなくなる。
しばらく迷いながら息を潜めていると、ふと、知った人の声が他を制した。
「彼女の身元は、大久保様が確認していらっしゃるでしょう」
あ……。この声、今津さん、だ。
「あの方が出し抜かれるようなことをなさるとは思えませんが」
「そ、そいはそうですが……しかし、もしやというこっも」
「はて。あの方を出し抜ける程の女魁が年端もいかぬ娘とあっては、年の功なぞ何の意味もないのでは?」
「小娘だからこそ、ではないのですか?女の武器を使うのに若いに越したことは……」
「ああ。案外、大久保様が預かりを装って囲われている、ということも有り得ますな。そうすると、どこの馬の骨なのやら」
……えっ。
何、これ。もしかして、わたしが大久保さんに体で取り入ってるって言ってるの?
大久保さんが、わたしをそういう目的で藩邸に置いてるって?
こもるような下卑た笑いが部屋に溢れるのを聞きながら、かっと頭が熱くなった。
婚約者とか恋仲とか、そういうのは今津さんにも女中さんにも聞かれたけど、それとこれとは話が全く違う。
これは、大久保さんが私的な関係の女性を藩邸に呼んで住まわせている、という意味だ。
公私の区別をつけず、妻にするつもりがない女性を公費で養っている、そういうことだ。
冗談じゃない。
大久保さんは、わたしを引き取るための公的な手続きをきちんとしてくれた。薩摩藩家老の小松様にも面会したし、小松様が勧めるのを断って、わたしの世話に関する費用や手間をきっちり分けてくれた。
小松様は、縁者一人を世話するくらい珍しくもない、藩内でやれと言ってくださったけど、そうすると万が一の場合にわたしが藩の命令を聞かないといけなくなるからと、絶対に譲らなかった。
実際、大久保さんの地位からすると、五人や十人養ったところで痛くもかゆくもないらしいんだけど……。
それでも、わたしのためにお金と時間を使ってくれたことに変わりはない。大久保さんの時間はきっと他の人の何十倍も貴重なのに、長い間放っておかれたことなんて一度もなかった。
そうまでしてわたしが困らないように取り計らってくれている人に、なんてことを言うんだ!
怒りで震える拳をぎゅっと握りしめたわたしの耳に、少し冷たくなった今津さんの言葉が響く。
「私は仕事上、少し聞いておりますが……彼女は子供の頃から異国語と接する機会があった、ただそれだけですよ。
そもそも、女だてらにあの大久保様とやり合う方です。さて、どれほど高貴なご身分なのか……」
うっと、答えに窮したうめきが部屋を静かにする。
怯んだ空気に追い打ちを掛けるように、今津さんは声を高くした。
「大久保様が信頼し、藩の仕事を任せるほどの才覚。対等のお振る舞い。大久保様に食ってかかるだけの胆力。
どれを取っても、凡俗なお血筋とは思えません。このような話が知れたら、面と向かって叱られかねませんね」
「……!」
今津さん、来いって言ってる?
わたしがここにいることに気づいていて、踏み込んで来いって言ってる。
一瞬だけ、大久保さんの苦み走った顔が浮かんだけれど、あんまりな物言いにすっかり頭に来ていたわたしは次の瞬間に覚悟を決めていた。
何より、大久保さんは意地悪で高飛車でイヤミ大魔王だけど、公私混同だけは絶対にしない人だ。むしろ、私の方に公を割り込ませるような人だ。
それをあんな風に嘲笑されて、誤解されたままにしておくわけにはいかない!
「───あの!」
「!??」
スパンッ!と障子を開けて乗り込むと、中にいた数人の藩士さんが、ぎょっとしてこちらを見た。
一番奥で、今津さんが楽しそうに目を細めている。
「あの、わたしのせいで藩の皆さんにご迷惑をお掛けしているのは知っています!ほんと、ごめんなさい!
出て行けるならそうしたいんですけど、今は家に帰ることができなくて、お世話になるしかなくて……。
でも、誰とも通じてなんかいませんし、悪いこともしていません。そもそも恩を仇で返すようなことはしません!」
「……は、っそ、その、」
「大久保さんはわたしに同情して、私財を擲って面倒を見てくれてるんです。しかも、何の見返りもないのに……。
あの人はすごくいい人です!わたしが言われるのはしょうがないけど、大久保さんを悪く言わないでください!」
お願いします!と勢い余って畳に手をついたら、ひっと引きつったような声を出して、藩士さんたちが一斉に立ち上がった。
「あ、頭ば上げてくいやんせ!!」
「お嬢様、いけません!!」
あ、あれ?
すごく悪く言われてると思ったのに、割とそうでもない……ような?
勢いに押されて顔を上げると、わたしの周りに集まっていた人垣の向こうで、今津さんがぱさりと扇を広げた。
「これは、見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
わたしがいることは分かっていたくせに、わざとそう言って、笑う。
「私共も悪気があったわけではないのです。今は難しい時世ですからね、藩の行く末を心配してのこと。
どうかそれだけは分かってくださいますか?」
「そ、そうです!」
「心配のあまり、失礼なこっば申してしまいもした。大変申し訳ござらん」
「えっ!や、やめてください!」
藩士さんたちがこぞって頭を下げようとするので、今度はわたしの方が慌ててしまった。
わたしみたいな小娘に頭を下げたりしたら、後々どんな問題になるかわからない。今津さんが言いふらすとは思わないけど、多分大久保さんに報告はするだろうから。
焦って目の前にいた一人の手を取ると、その藩士さんは一瞬呆然として、それから青ざめていた顔色が一気に赤くなった。
「謝らないでください、わたしがご迷惑を掛けている方なんですから。それに心配するのは当たり前です。
不審に思ったら聞きにきてくれれば、できるだけ説明します。色々と話せない事情もありますけど」
「そのようなことを約束して良いのですか?勝手なことをすれば、大久保様の御不興を買うのでは?」
「えーと。やばいといえばやばいんですけど……でも大久保さん、いつも叱ることはあっても怒りはしませんから。
わたしのことを喋っちゃうくらい、大丈夫だと思います。最悪、ちょっとお小言を聞き流せばすみます!」
「き、聞き流せば……」
「お小言……」
大丈夫!と胸を張ったら、藩士さんたちは背筋が寒くなったような顔でお互いに見合って。
それから、慌ただしくお詫びと退出の挨拶を繰り返すと、全員さっさといなくなってしまった。
「あれ?」
ぽつーんと取り残されて、一人そこに座ったままの今津さんの方を見る。
「えっと……何か、まずかったでしょうか?」
「いえいえ。上出来ですよ」
「上、出来?」
「ええ。あの者達は大久保様とほぼ関わりがない平藩士ですので、あなたとのことも単なる推測……邪推に過ぎません。
ですが、逆にそれが面倒を引き起こすこともあります」
「はい……」
「大久保様は私事を訥々とご説明される方ではありませんので、些か懸念しておりましたが、もう大丈夫。
あなたが真実、大久保様とやり合えるのだと知れましたので、もうこのようなことはなくなりますよ」
「やり合える……?あの、今津さん」
「はい」
「大久保さんって、そんなに怖がられてるんですか?」
わたしが首を傾げると、今津さんは一瞬目を見開いて、それからおかしそうにくすくす笑った。
「そうですね。特に平藩士などには、雲の上の方ですね」
「そうなんだ……全然そんなことないのに」
「優しいのは、お嬢様にだけ、では?」
「そんなことないです。大久保さんって、実は考えてることは意外なくらい優しいんですよ?
お仕事のこととか色々質問するんですけど、つまりこういうこと?ってまとめると、ものすごく他人を思いやってて。
むしろ、なんでそんな回りくどい気を遣うの!?って驚くくらい」
「ほう」
「あれですね、優しいって言われるのが嫌で、頭脳のうちの半分くらいは偽装工作に使ってるんですよ。
だからお仕事は全部、残りの半分でしているようなものだと思います。まったく面倒くさい人ですよねー」
「……くく」
調子に乗って説明してたら、今津さんが扇で隠すようにして肩を震わせた。
う、笑われた……。また変なこと言っちゃった……。
でも、丸く収まった(?)のは今津さんのおかげだもん。ちゃんとお礼を言うべきだよね。
わたしはきちんと三つ指をついて、今津さんに頭を下げた。
「今津さん、大久保さんを気遣ってくれてありがとうございました。うれしかったです」
「……お礼を言われたかった所が少し違うような気もしますが。まあ、それもあなたらしい」
「??あ!あの、さっきの藩士さんたちのこと、大久保さんにはあんまり……」
「分かっております。特に問題があるようなものではないので、名前は出さずに済ませますよ」
「よかった。ちゃんと分かってくれたんだってことも伝えてくださいね」
「ええ、伝えるべきことは全て伝えておきます」
今津さんはまだ笑いを残した顔で、それでも優しく頭を撫でてくれた。
◇ ◇ ◇
それからしばらく経った、ある日のこと。
「───小娘」
「はーい?」
表座敷から帰ってきた大久保さんが、わたしの手習いの半紙を取り上げて眉を顰めながら言った。
「おまえがさる高貴な方の御落胤で、お家騒動に巻き込まれ、治まるまで我が藩に身を寄せている……というのは本当か?」
「……は?」
「世が世なら深窓の姫君だが、そのせいで外界に触れざるを得ず、今では男顔負けの知識と手腕を持つというのは?」
「へ……?」
「表立っては騒げぬが、薩摩にとって重要な賓客だと、皆が誠しやかに噂しているぞ」
言われている意味が分からなくて、頭上の顔を呆気にとられて見つめる。
わたしの辿々しい文字に朱書きで添削をしながら、大久保さんはニヤリと嫌な笑いを浮かべた。
「どういうことなのか説明してもらおうか?何、私は叱ることはあっても怒りはせぬ故、じっくりと教えていただこう」
「!!」
さっと顔が蒼白になるのが分かった。
やばい。この顔は最上級にヤバイ。なんか、虎の穴に踏み込んだ感じがする。
本能的に逃げだそうとするわたしを、大久保さんはなんなく捕まえて、ぶにぶにと両手で頬をつねりあげる。
「いひゃい、いひゃいれふー」
「実は意外なくらい優しい私から逃げようとするとは……仕置きが必要だな?」
「!!!そ、それ……」
「回りくどく他人を思いやる、面倒な私が好みなのだろう?私も、憚るという言葉を知らぬ奔放な小娘に興味がある。
この際、膝を詰めて腹を割った話をしようではないか」
「あう……」
───いーまーづーさーん!!!
心の中で絶叫しながら、わたしは心底楽しそうな笑顔を浮かべる大久保さんに大人しく頬をつねられ続けた。
あのようなことを言われたら下手に事を起こせない、とか、いざというときに身元を捏造しにくい、とか、訳の分からないことをぶつぶつぼやき続ける大久保さんのお仕置きは、日が落ちても終わらなかった。
つづく?
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