【主劇】小娘
ほかほかのごはん。
きれいな魚の煮付け。鳥肉と野菜のあんかけ。薄い焼き色の付いた卵焼き。ごま豆腐とお刺身。小さく盛られたおそば。大きな貝の入ったお吸い物。飾り切りのされた酢の物。お新香。色とりどりのフルーツ。お団子と崩したゼリーみたいなデザート。
藩邸でもちょっと見ないような豪勢な料理が、わたしの目の前に広がっている。
「わ……」
思わず止まって見入ってしまったわたしに、大久保さんはふんと鼻を鳴らした。
「口を開けたまま止まるな。間抜けに見えるぞ」
「や、でも、これは見とれるでしょう……」
いつもの毒舌にも、毒舌を返せない。
なんというか、別にそれほど食い意地が張ってるわけじゃない(と思いたい)けど、これはかなりぐっとくる。
それに、ただ美味しそうなだけじゃなくて、すっごくわたしの世界のお料理に似てるんだ。飾り切りや盛り方も見覚えがある。
普段の食事よりずっと見知ったものに近い料理に、少し感動してしまった。
「……大げさな奴だな。藩邸ではろくなものを食わせていないのかと思われるだろう」
「え、あ、そうじゃなくてっ」
「冷めぬうちに食え。こんなものでよければ、またいつでも連れてきてやる」
一瞬照れたような顔をして、大久保さんはさっさと料理に箸を付けた。
慌てて、お箸を取り上げる。突っ込まれそうな気がしたから持ち方にも気をつけたら、案の定『知っているとは思わなかった』みたいな目で見られた。
「なんですか。わたしだってお箸の上げ下げくらい知ってます!」
「いや、これは失礼した。まさかそのように行儀作法を身に付けたご令嬢だったとは、まさか」
首をふりふりオーバーに言う大久保さんを無視して、わたしは卵焼きを口に入れた。
ほのかに甘い味と、上品な出汁の風味。
やっぱり、わたしの知ってる卵焼きに似てる……。
「小娘?」
わたしの様子を不思議に思ったのか、大久保さんが机越しにそっと手を伸ばす。
頬を手の甲が滑ったのを感じてふっと顔を上げると、なんだか心配そうな瞳が見えた。
───あれ。わたしもしかして、情けない顔しちゃってるのかな?……
そう思って、慌てて取り繕おうとした瞬間。
「いかん!いかんぞっ!他の男とそんな目で見つめ合うなんて言語道断だ!」
「わあっ!?」
突然耳元で大声がして、後ろから大きな手がわたしの首をがっしりと掴んだ。
がたん、とお店のどこかで腰掛けの動く音がして、同時に目の前の大久保さんが大げさにため息をつく。
「いきなりそれはないだろう。谷君」
「へっ?」
大久保さんの言った名前と、わたしの頭に浮かんだ名前が違っていたから、わたしは思わず首だけ振り向いて斜め上を見上げた。
「あれ?」
「よお!」
そこには思った通り、満面の笑みを浮かべる高杉さん。
ていうか……ち、近い!10センチも離れてない!
「た……!た、た……たに、さん?あれっ」
「小娘には名前を教えてなかったか?谷梅之助君だ」
大久保さんが笑いを含んだ顔でそう言った。
あ、そっか。高杉さんの名前は公の場で出しちゃいけないって、前に聞いたっけ。きっと偽名なんだ。
「お気遣い、痛み入ります」
「新堀君も来ていたのか」
「新堀、さん……」
高杉さんの後ろから、桂さんも歩いてくる。
へー、桂さんは新堀さんって言うんだ。なんか知ってる人の名前が違うのって変な感じだな。
あ、じゃあもしかして、わたしも好きなの名乗っていいのかな?柴咲コウとか?
「小娘、何を馬鹿なことを考えている」
「!!よ、読まないでくださいっ」
恥ずかしい!すごく変なこと考えちゃった!
赤面したわたしに向けた呆れた視線を、大久保さんはそのまま後ろの人にも投げつけた。
「君もだ、谷君。いい加減離れたまえ」
「そ、そうですよ!近すぎます!」
「えー、別にいいだろ!こいつはオレのよ」
「嫁じゃありませんっ」
「早いな!日々早くなってないかおい!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ高杉さんに、わたしはちゃんと向き直って諭した。
「駄目です。食事中ですよ?お行儀悪いって叱られます」
「む……」
「谷さんも、食事に来たんでしょう?えっと、大久保さん」
「ああ、構わん。が、ここではいささかまずかろう。上に座敷があるから、そこへ移るぞ」
全部言わないうちに、大久保さんはわたしの考えを察してお店の人に合図をした。
【薩摩藩】大久保 利通
全く、よりによって今、彼らと出会わなくてもいいというものだ。
店の者に席を移すよう指示しながら、私は小さく舌打ちをした。
高杉君は、小娘が長州藩邸に留まらなかったことを随分と零していたから、ここぞとばかりに小娘を放しはしまい。
それ故、長州藩邸での会合へも連れて行ったりはしなかった。薩摩藩邸での会合はわざと忙しい予定を組んで、小娘が難儀せんよう気まで遣ってやったのに。
……いや、しかし。
高杉君のような底抜けに威勢のいい者がいた方が、今は気が紛れるやもしれん。
先程の小娘は、どこか寂しげな様子をしていた。大方、故郷を思い出してしまったとでも言うのだろう。
全く。───小娘の考えは本当に、浅はかで分かりやすい。
「あ、わたし、ちょっと……先に行ってて下さい」
高杉君らと連れ立って奥の階段へ進もうとすると、小娘が何かに気づいたように立ち止まった。
「なんだ?」
「いえ、すぐ行きますから」
「厠か」
「違います!そういうことを言わないでください!」
ぷりぷりと怒りながら踵を返す小娘を少しだけ見送り、私は座敷に向かって階段を上った。
【主劇】小娘
大久保さんって、人の考えをものすっごく良く読むのに、それを半分くらいからかうのに使っちゃうよね。
もったいない。あれでからかったり皮肉を言ったりしなければ、すごく察しが良くて気が利いてスマートなインテリなのに。
毒のないスマートなインテリの大久保さん……
「ぷっ」
歯をキラキラっと輝かせながらタキシードを着て女性をエスコートしている右目の隠れた紳士を想像して、わたしは思わず吹き出した。
に、似合う。似合うけど、壮絶に似合わない。見たら爆笑できそう。
あああ、いまここに大久保さんがいなくてよかった。ばれたら殺されちゃうよ。
「あの、すみません」
わたしは愉快な想像を打ち切って、お店の調理処をひょいと覗いた。
給仕していた仲居さんが、気づいて応対してくれる。
「へえ。なんでっしゃろ」
「ちょっとお願いがあるんですけど。今、上に行ったお客さんいますよね」
「ああ、大久保はん?前からよう使てくださるお得意様ですよ」
「文句を言うようで申し訳ないんですけど、新しく出すお茶、もう少し渋くしてもらえますか?」
「渋く……ですか?」
仲居さんが首を傾げたので、わたしは頷いて説明した。
「とってもいいお茶だから、淹れ方にも気を遣ってくださってるのは分かるんです。
でも大久保さん、お茶は渋くないと飲んだ気がしないっていつも言うので」
「ああ、お連れ様でしたか。分かりました、どのくらい渋ぅしましょ?」
「えーと、一口味見した時に『渋っっっ!?』って叫んじゃうくらいの渋さでお願いします」
思いっきり顔をしかめてみせると、仲居さんは何かを堪えるような顔をして肩を震わせた。
う、笑われちゃった……。
「わ、分かりました。後でお持ちします」
「すいません……」
「いいえ、お得意様の好みを教えてくれはるのは嬉しおす。お嬢様も薩摩藩邸のお人?」
「えーと、はい。お世話になってます」
「やったら、また是非おいでくださいね。お嬢様のような楽しお人なら大歓迎やさかい」
「あ、はい!ここのごはんすっごくおいしいので、また連れてきてもらいます!」
「それはそれは、おおきに」
丁寧にお辞儀してくれる仲居さんに会釈を返して、廊下を引き返す。
と、少し遅くなってしまったので急いで角を曲がろうとしたのが悪かったのか、わたしはそこにいた人に頭から突っ込んでしまった。
「ぶっ!」
「……!」
思いっきり鼻を打って、目がちかちかする。
顔を押さえながら、とっさに謝ろうとした時、頭上から慌てた声がした。
「だ、大丈夫やっか!?」
「……あれ?」
それは、とても聞き覚えのある言葉で。
「半次郎さん?」
まだよく見えない目をこらすと、おろおろしている半次郎さんの姿が見えた。
「あ、やっぱり半次郎さんだ」
「すいもはん、おいがこげなとこいおったち」※すいません、俺がこんなとこにいたから
「ううん、わたしこそごめんなさい。あ、もしかして、ご用が終わって大久保さんのお迎えですか?」
「……まあ、そげなもんです」※……まあ、そんなもんです
「?えと、大久保さん、たか……谷さんに会って、上の座敷に行っちゃったんです。まだかかると思うので」
「わかいもした。おいは部屋の外に控えておいもす」※わかりました。俺は部屋の外に控えています
「中に入らないんですか?」
「はい。……早ういかんと食っぱぐれっと」※はい。……早く行かないと食いっぱぐれるよ
「あ!そうだった!」
わたしが急いで階段を上がろうとすると、半次郎さんが『いっとっ、待ちやい』※ちょっと、待ってと言って廊下の先へ向かっていった。と、思ったら帰ってきた。
なんだろう?
「こいで、冷やしたもんせ」※これで、冷やしてください
「あっ」
水で濡らした小さい手ぬぐいを、顔に当ててくれる。
その目が笑っているのを見て、わたしは思わず眉尻を下げた。
「……鼻、赤くなってました?」
「ちっとな」
「ううう」
「放っときも大丈夫やろが、大久保さぁがせわやかう」※放っといても大丈夫だろうけど、大久保さんが心配する
「ありがとうございます。じゃあ、また後で!」
手を振って駆け出したわたしを、半次郎さんはずっと見送ってくれた。
◇ ◇ ◇
「「遅い!」」
「ひゃっ」
障子を開けて座敷に入ったとたん、ステレオで声がかかって、わたしはびくりと飛び上がった。
見ると、座敷の左と右に大久保さんと高杉さんがそれぞれ座っている。
「すいません。帰りに人とぶつかっちゃって」
「小娘はいつまで経っても忙しないな。ご令嬢が聞いて呆れる」
「そ、そこまで言わなくていいじゃないですか!てかご令嬢って言ったの大久保さんですよ!」
「なにっ!大久保さん、影でこいつのことをそんな風に呼んでるのか!?」
「あれは揶揄だ」
「はっきり言わないでください!」
「はっきり言わずにどうする。私が小娘のことを令嬢と褒めそやしているなどと思われたら堪らん」
いかにもバカにしたように大久保さんが嘯くので、わたしはつんと澄まして言ってやった。
「そのような行儀作法を身に付けた素晴らしいご令嬢だったとは、感じ入った、とか言ったじゃないですか」
「大久保さん!あんた興味のない振りをして、やっぱりこいつを狙ってるんだな!」
「尾ひれを付けるな!そんな訳無かろう!」
「あーおなかすいた。ごはんごはんー」
「こいつはオレの嫁だ!渡さんぞ!」
「ええい、食事中にバタバタするな!埃が立つ!」
騒ぎをうまく押しつけて、わたしは自分の席についた。
この二人とまともに付き合ってたら、ごはんが冷めるどころかカチカチになってしまう。それはすっごく切ない。
でも、わたしが座布団に座ったとたん、二人の騒ぎはぴたりとやんでしまった。
お箸を持ち上げながら見ると、詰め寄った高杉さんものけぞった大久保さんも、それから我関せずで食事をしていた桂さんまでこっちを見ている。
わたしは隣でのけぞっている大久保さんを見上げた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない。おまえの選択は正しい」
「は?」
「……一瞬も迷わずにそっちに座るか……。」
「なんでもないよ。早くお上がり」
「???いただきまーす」
桂さんが優しく言ってくれたし、大久保さんもなんだか満足そうだったので、わたしは気にせず食事に手を付けた。
うん、おいしい!煮付けの味もいいし、あんかけもお吸い物も好きな味だけど、やっぱり卵焼きが一番おいしいな。
あとでさっきの仲居さんを掴まえて、何で味付けしてるのか聞いてみよう。ダシの素とか甘味料とか、ないんだよね。砂糖はあるけどあんまり甘くないんだよね……。
砂糖の種類が違うとか?うーん、でもあの砂糖だって、藩邸の台所では高級品扱いだし。もっと甘いのとか高そうー。
甘い砂糖と牛乳があったら、ミルクティーかカフェラテ飲みたい。甘くてクリーミーな飲み物が恋しい!
ああでも、そもそも紅茶やコーヒーが手に入らないのか……緑茶……じゃ、無理だろうな。
「…………。」
ふと、わけもわからずおなかが一杯になった気がして、わたしは思わず箸を置いた。
いつの間にかもくもくと食べていた三人が、また揃ってわたしを見る。
「おい、どうした?嬉しそうに食ってたのに、今は変な顔をしてるぞ」
「へ、変って!……」
高杉さんのあんまりな物言いに言い返そうとするけれど、言葉もやっぱり出てこない。
すると、隣で大久保さんが小さく息を吐き、お吸い物に口を付けた。
「単なる懐郷だろう」
「へ?」
かいきょう?と首を傾げると、桂さんが説明してくれる。
「懐郷とは、故郷を懐かしく思う気持ちのことです。なるほど、食べ物は一番生活に根付いた習慣ですからね」
「大方、これらの食事が故郷のものに似ているか、全く違うか……おそらく前者だろう」
「あ……その通りです!大久保さんすごいっ」
「なんだ。つまり、故郷が懐かしくて寂しくなっちまったってことか?」
「えっ」
高杉さんが強引にまとめたので、わたしは自問自答してみた。
そんなに寂しい、ってほどじゃない。と、思う。確かに家には帰りたいし、食べてたものは懐かしいけど、帰りたくてしかたない!ってほど辛くはない、みたい。
わたしはゆっくりと首を振った。
「そうでも、ないです。確かに、これはうちで食べてたのとほとんど同じで、何で味付けしてるんだろうとか思ってましたけど。
でも、今すぐ帰りたい、帰れないのが辛い、ってことはないと思います。むしろ」
「……むしろ?」
「卵焼きとかごま豆腐とかゼリーとかお団子とか、ここまでわたしのところと同じものがあるなら、他にもあるのかなぁって……
例えば、コーヒーとか紅茶とか……チョコレートとか?」
「ある」
「へっ!?」
「こおひいは薬として有名ですし、ちょこれえとも紅茶も輸入こそしていませんが、入国する異国人が好みで持ち込んでいますよ」
「えええええっ!?」
「しかし、あのように苦い物を好むのか?おまえは甘い物しか食えんじゃないか」
「に、苦い!?コーヒーはお砂糖と牛乳入れなきゃ苦いですけど、チョコレートは甘いですよ?」
「文献で読んだ限りでは、ちょこれえとは真っ黒で泥のような液体とそれを固めたものがあり、かなり苦みがあるとされていた」
「ええええ……、やっぱりそれも甘くないのかぁ……」
甘みはどうやら、味覚の中でもかなり貴重な味らしい。この分ならもしかして、牛乳も苦いのかもしれない。
「あの、牛乳は、牛乳も苦いんですか?」
「牛乳?まさか牛の乳ですか?」
「は、はい」
「乳の味が違うわけなかろうが。そもそもそんなもの、誰も飲まない」
「未来では牛の乳を飲むのか!」
「え?牛乳飲まないんですか?ってか、未来って」
変な風に話が発展したので、わたしはその説を思い出してぬるーくうなずいた。
「ああ、未来……そういえばそんな設定もありましたね」
「ありましたね、じゃない。逆に考えてみろ。まったく関係のない世界だったら、そうまで似ているのはおかしいじゃないか」
「そ、それは」
「言葉も同じ、食べ物も同じ。寝床も服も井戸だって風呂だって見覚えがある。とすると、そう考える方が自然だろう」
「…………」
「何より、おまえ、オレたちの名前を聞いたことがあるんだろう?」
「なんだと?」
その言葉に、一番反応したのは大久保さんだった。
やばい。それって、高杉さんと話してる時にひとりごと言っちゃっただけで、大久保さんには話してなかったのに!
ていうか、名前聞きかじっただけとか言えないよ……。
「どういうことだ。そんな話は聞いたことがないが?」
「うっ」
「仕置きされたくなければ、はっきり言え」
「ううううう」
お仕置き!なんだそれ、すごい響きだ!
わたしは大久保さんの圧力に耐えられなくなって、小さく縮こまりながら答えた。
「どんな人かは分からないんですけど……高杉晋作って名前も大久保利通って名前も、桂小五郎って名前も聞いたことあります……」
「ほら、な!」
「どんな人か分からないとはどういうことだ」
「私もかい?」
三者三様。
ああでも、言えない。大久保さんの名前が一番印象薄いとか、言えない!
多分あれだよ、マンガとかゲームとかドラマとかにあんまりなってないんだよ!知らないけど!
「だからきっと、こいつは世が平和で安全になった未来から来たんだ。オレたちは偉業を成し遂げた英雄ってことになってるんだろうぜ」
「晋作、また君は夢物語のようなことを」
「いや、本気の話だ。まあオレたちの話はどうでもいい、英雄になるためにやってるわけじゃないからな!
だがこいつにとっては重要だろう」
わたしを指さしてから、高杉さんはどん!と胸を張った。
「つまり、こいつの欲しいもの、こいつの故郷のものは、今ここでだって用意できるかもしれんということだ!」
「えええ!?どういうことですか!?」
「とりあえず、こおひいと、紅茶と、ちょこれえとと、牛乳だったか?必ずオレが用意してやるから、楽しみに待ってろ!」
「い、いや、いいです!遠慮します!」
「遠慮はするな!」
「いやいや!えっと、その、別にどうしても欲しいわけじゃないですし、それにわたしのところと食べ方とか違ってたら無駄にしちゃいますから!」
「無駄にしても構わん!オレは、おまえの喜ぶ顔が見たいんだっ!」
あああああ。盛り上がっちゃった……。
気持ちはうれしい。すっごくうれしい、けど、高杉さんめちゃくちゃするんだもん。
探しに行く!っていなくなられでもしたら、わたしが大久保さんに怒られそうだ。そんなの理不尽すぎる。
これはもう止められないと思って、縋るような瞳で桂さんを見ると、疲れたような苦笑が返ってきた。
「そう当てにされても困るのだけれど……」
「す、すみません」
「でもまあ、この勢いは止めておくよ。こおひいくらいならすぐ手に入るだろうから、その辺でね」
「あ、そっか。よろしくお願いします。それから、桂さんも高杉さんも、ありがとうございます!」
ひそひそと会話しながらぺこりと頭を下げると、桂さんは照れたように頷いてくれた。
「あっ、小五郎!オレの女に何をしてる!」
「高杉さんの女じゃありませんってば!」
「いい加減に静まらんか!小娘、差し当たって食事を片づけろ。それだけ騒げば腹も減っただろう」
「あ」
そういえば、さっきまでもやもやしてた胸の中が、すっきりしてる。
答えるようにおなかがきゅるるると鳴って、わたしは一気に赤面した。
【薩摩藩】大久保 利通
小娘が再び元気に飯を頬張ったのを見て、思った以上に安堵している自分を知った。
美味い物を食わせてやろうと連れてきた場所で、却って寂しい思いをさせてしまったことも心苦しいが、それ以上に帰る手だてを探してやれていないことに苛立ちが募っていたから。
まだ、時期が悪い。
今でも確かに、そう思っている。
けれど、こちらの事情のために小娘の感情を犠牲にしていることもまた、事実だった。
今すぐ帰りたい、帰れないのが辛いとは思わないと、自分を誤魔化すように言った小娘が痛々しかった。
頻繁に外出して手がかりを探すことは、今の京では危険が伴う。その判断が間違っているとは思わないが、もしあの時に小娘が薩摩藩邸を選ばなかったら、あやつは今頃故郷へ帰れていたかもしれない。
私以外の奴らは皆、小娘の希望を封じたりはしないだろう。
───たとえ、命の危険があろうとも。
「……ふ」
埒もない想像に、自嘲が漏れた。
皆と違うのは当たり前だ。奴らは危険を冒して高利を得るのが役目。私は危険の少ない範囲内で、できる限りの成果を生むのが仕事だ。
役割の違いを、比べることなどできるはずもあるまい。
機械的に椀を空にし、給仕された茶に口を付けたところで、私は不審を感じてそれを覗き込んだ。
湯飲みの中には、先刻とは比べ物にならないほど濃い茶が入っている。
おかしい。下で飲んだ時は、むしろ薄目だったはずだが……?
「……。なるほど」
小娘が中座した理由は、これか。
全く。藩邸内ならいざ知らず、人が外で飲む茶など放っておけばいいものを。
自分の食べたいもの、懐かしい料理を置いて、そこまでする理由がどこにある。あいつは阿呆か!
「お、大久保さん」
私の不快を察したのか、桂君が恐る恐る声を掛けてきた。
「なんだ?」
「あの、何やら随分と機嫌が良いようですが。何かありましたか?」
「機嫌が良い……………、だと?」
私は思わず口元に手をやった。
結局膳を突き合わせるようにして、あれやこれや騒ぎながら食べていた小娘と高杉君が、揃ってぽかんと口を開けている。
「あんな顔で笑ってる大久保さん、初めて見た……やばいぞ」
「わ、わたしも初めてです。明日はヤリが降りそう」
「二人とも、聞こえているぞ?」
いっそ満面の笑みを向けてやると、こそこそと囁き合っていたのがびくりと震えた。
そんなに極渋茶が嬉しかったのかなぁ?と呟く声も、聞こえている。
そうではない。そんな些細なことで喜んでどうする。
小娘が当然のようにこれを用意したということは、あやつが薩摩藩邸にいやいや逗留している訳ではない証だ。
あの小さな脳みそで懸命に、利点も欠点も考慮して選んで。
見知った者が誰もいない広い藩邸内に、今ではしっかりとした居場所を築いている。
───小娘はちゃんと、地に足をつけて歩んでいる。
自分の選択の結果を、それと知って受け止めている。であれば、痛々しいなどと思うことすらおこがましい。
「くっくく、はっはっは。本当に埒もなかったな」
これは、大久保ともあろう者が少々相手を見くびっていたらしい。
よかろう。小娘の身は、改めて薩摩が預かる。
小娘が未来とやらに帰るまで、ちょこれえとでも牛の乳でも、何でも欲しい物を言うがいい。
私は高杉君ではない。喜ぶ顔が見たいからと、何もかも放り出すようなことはしない。
だからこそ、小娘は私に無茶も無理も憚ることがないのだ。
それで良いではないか?
「小娘、薩摩藩邸は随分と居心地が良いようだな。なんなら帰らずにずっと私の傍にいても構わんのだぞ?」
そんな軽口を叩くと、高杉君は気色ばんで立ち上がり、小娘はぽかんと阿呆面をして私を見つめた。
つづく?
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