【薩摩藩】大久保 利通
小娘がこの薩摩藩邸に移ってから、しばらく経った。
私が小娘をここに招いたのは、この時期に坂本君の所に身元の不確かな者を置いておく訳にはいかないというだけの理由だったので、藩邸で何かをさせようとか、逆に小娘をこうしてやろうという意図はなかった。
もっと言えば、あの面々の中で小娘に執着していないのは、おそらく自分だけではないかと思ったから。
どう見ても身持ちが堅いようには見えない坂本君は言うに及ばず、女子に縁のなさそうな岡田君や武市君、果てはこういうことに一番慎重な中岡君までもが、あやつの扱いには一家言ありそうな勢いだった。
長州組は言わずもがなだ。高杉君があれほど興味を持ってしまっては、桂君だって黙ってはいないだろう。
いや、私とて、小娘が敵方の間者だと思っているわけではない。
純真で雅やかな娘というわけではないが、少なくとも性根は悪くないと見ている。
───だが、今は一番時期が悪い。
薩摩と長州の同盟、しかも一度約を違えたせいでもう後がない機会を前にして、ほんのわずかな不安も放置するわけにはいかないのだ。
この同盟は、なんとしても成し遂げなければならない。
小娘にも事情はあろうが、ここは此方の事情を優先して、同盟が終わるまでは藩邸で大人しくしていてもらおう。
そう、思ったのだが。
「……なんだ、この有様は」
部屋に入るなり、私は思わず呻いてしまった。
決して小さくはない部屋の中には、紙が所狭しと散乱している。
「あ、大久保さん」
対岸で呟いた小娘には応えず、一枚拾い上げてみると、それはえげれす語で書かれた書類だった。
内容がすらすら読める訳ではないが、様式から輸出入に関するものだと判る。
書類に走らせた視線をそのまま投げると、小娘は途端に難しい顔をした。
「───別に、勝手にやっているわけじゃないですよ。許可は取ったでしょう?」
「私が許可したのは、小娘が持っているえいわじてんとかいう字引きの使用に関してだ。
それが我が藩の使用している物より良く意味を解すと言うから、参考までに使ってやるという話だったはずだが?」
おそらく、私は非難の色を顔に出してしまっているのだろう。
小娘はますます口を尖らせると、だって、と続けた。
「わたしにしか読めないって言うんだから、仕方ないじゃないですか」
確かに、どこで作られたのか見当もつかないその字引きには、今この国で使われているものとは少々異なる解釈、異なる表記法が使われている。
無理をすればこちらの者にも読めなくはないが、時々意味の分からない説明や単語が飛び出すこともあって、託された者が根を上げてしまったのだろうと窺い知れた。
「……まあ、もう見てしまったのなら構わん。本来なら藩の重要機密だ、心して扱え」
「わかってますよー!ていうか、わたしが働かされてる方なのに!お礼の一つでも言ったらどうですか!」
「ほう?」
畳の隙間を縫って小娘に近づくと、私はその餅のような頬っぺたを両手で摘み、ぎゅうぎゅうと引っ張った。
「いたたたたたたた」
「この口が言うのか?『何かお役に立てるなら嬉しいです!』と広言した、この口が言うか?」
「いたたた、ほんとに痛いです!龍馬さんに言いつけますよ!」
「坂本君に言われて何を困ることがあるのだ」
「じゃあ、武市さんか桂さんに言います。あの二人なら大久保さんをやっつけてくれそうだし」
「………」
思わず、私は手を放した。
「はー、痛かった。すぐ人の顔をつねるのやめてくださいよ。子供じゃあるまいし」
「………」
「藩邸のことで知らないことがあってムカつくのは分かりますけど、それは八つ当たりですよ?」
「………」
「だいたい、社交辞令かましたら本当に仕事が来ちゃったわたしが一番困ってるんですって。
感謝してお茶の一杯も淹れてきてほしいくらいですよ」
「………おまえはどうしてそうなのだ!」
不遜、横柄。いや、そんなことは良い。初対面でこの大久保を何様だ、小物だと怒鳴りつけたその度胸が気に入ったのだから、口が悪かろうが態度が悪かろうが構いはしない。
だが、自らの発言を社交辞令と言ってのける、その毒舌が向けられるのは私唯一人だけ。
他の者には甲斐甲斐しく世話を焼いているくせに、私には茶を淹れさせようとする。
こやつは一体、私を何だと思っておるのだ!
「やだなあ。薩摩の重鎮、英傑と呼ばれる偉大な御方だと思っていますよー」
私の心を読んだように、小娘はにっこりと他の者に向けるような顔で笑い、見事に台詞を棒読みして見せた。
【主劇】小娘
「とりあえず、疲れたんでちょっと休憩しますね」
頭から火を噴きそうな大久保さんを見返して、わたしはするりと席を立った。
本当に、この人はおもしろい。最初は大久保さんの方がわたしのことをおもしろいと言っていたんだけど、この薩摩藩邸にお世話になってからこっち、他の人への対応と大久保さんへの対応が全然違うことがだんだん気になってきたみたい。
わたしとしては、別に大久保さんを蔑ろにしてるんじゃなくて、この人に対して下手に出たら負けだと思っているだけなんだけど。なんというか、好敵手?へらず口仲間?みたいな。
でも、大久保さんも本気で怒ってるわけじゃないと思う。時々こうして部屋にやってきて、不自由がないかを分かりにくい言葉で確認してくれるんだから、いい人だ。
今日はちょっと、大久保さんに隠れてやってた非公式文書の和訳がバレちゃったから、アレだけど。
でも、頼んだ人に迷惑がかからないように、ちゃんと話を終わらせておかなきゃ。
「言っときますけど、この書類は全部概略だけですよ。具体的な数字とか商品名とか、内容がわかるものはありませんから」
「そんなことは判っている。おまえにこれをやらせたのは今津だろう。小娘のような者に、我が藩が内々にしている取引の証拠を渡すほど愚かな男ではない」
「していることは今、大久保さんがしゃべっちゃってますけどね!」
「やかましい。私はそんなことを問題にしているのではない。この藩邸の実務を取り仕切るこの私が、何故このことを知らされていないのかを言っているのだ」
「そんなことは判ってますよ。わたしが頼んだんです」
「ほう?あやつが小娘のどんな甘言に乗せられたというのだ?」
「『大久保さんはもう少ししたらここに来ますから、急用があるのならわたしから言っておきましょうか?』」
「………」
「『いいえ、大丈夫ですよ!皆さんにはとってもよくしてもらっているので、やらせてもらえると嬉しいです!』」
「………いつの話だ?」
「一刻くらい前?ですかね?」
「………」
大久保さんはまた、何か言いたいような、何か考えるような風に黙った後、ふうと息をついた。
「休むのなら、茶を淹れてこい。極渋だぞ」
やっぱり、大久保さんはいい人だ。
◇ ◇ ◇
仕方ないのでお茶を用意しようと台所へ向かっていると、途中の廊下で、庭から鍛錬する声が聞こえてきた。
(───この声は!!)
一気に早足になって、他の女中さんが驚くのも構わずに台所へ飛び込む。
お茶の淹れ方は、ここに来て一番最初に習ったことだ。緑色の塊みたいな大久保さん用の極渋茶と、まともな人用の普通のお茶。
今では一応、大久保さんにも文句を言われない程度に上達した。最初はよくまずいまずいと言われたけど、ガスレンジも電気ポットもないんだから、仕方ないと思う。
そんなことを考えながら、練習したとおりにお茶を淹れて、お盆に急須や湯飲みをセットする。
大久保さん用のお茶は蒸らす時間が長いから、少しは余裕があるはず!
わたしはお茶をこぼさないように、でもなるべく急いでお勝手を出た。
「───中村さん!」
庭に面した廊下で呼びかけると、少し先で木刀を振っていた人が腕を下ろしてこちらを見た。
「お嬢さぁ」
「お邪魔してごめんなさい。よかったら、少し休憩してお茶でも飲みませんか?」
茶托を持ち上げてみせると、中村さんはにこにこ笑顔になって、わたしの方へ歩いてくる。
この人は、中村半次郎さん。よく大久保さんの護衛をしている人だ。
一口で護衛といっても、剣の腕は生半可なものじゃなくて、初めて稽古を見た時は時間を忘れて見惚れてしまった。
剣道の実力者というわけでもないわたしだけど、生まれた時から道場で過ごしていたから、強い人はわかる。
中村さんは間違いなく、わたしが今まで見た中で一番強い人だった。
強いだけじゃなくて、剣がまっすぐで曇りなく、技は深く、心は高い。お父さんがいつも言ってた『剣の道の行き着く先』を体現したような人だと思う。
このひとに会えただけで、ここに来てよかったかもしれないなんて現金なことを考えてしまったほど。
───つまり、わたしは初めて逢った時から、このひとのファンなのだ。
「女中さんほど上手じゃないですけど、どうぞ」
「もれもす」※いただきます
短く言って、お茶を受け取る中村さん。無口なところも剣豪!て感じがしていいんだよねー。
でも無愛想なわけじゃなくて、いつもにこにこ、ほんわかしてる。どこかの誰かみたいに、差し出したお茶を飲んでくれなかったり、話を聞いてくれなかったことは一度もない。
「もうすぐお昼ですね。よかったら、またご一緒してもいいですか?」
そう訊くと、中村さんは少し困ったような、迷うような表情で首を傾げた。
大久保さんとか、藩の偉い人は自分の部屋でごはんを食べるけど、ほかの藩士さんたちは座敷やあちこちの部屋で何人か集まって食べてる。
わたしも部屋で食べてたんだけど、ほんの数日で耐えきれなくなって、食事時にはお膳を持ってうろうろするようになった。
女中さんたちはこの時間が一番忙しいし、知らない藩士さんにはあまり関わるなって大久保さんに言われてる。
だから誰も誘えなくて、でももう一人ごはんはする気にならなくて、困っていたところを助けてくれたのが中村さん。
正直、最初は尊敬してる師範と一緒に食事してるような恐れ多い気分になったけど、中村さんは全く威張るようなところがなかったから、それは思いがけず楽しい時間になった。
でも、今日はどうやら先約があるみたい……なのかな?
「すいもはん。おや今日は用があいもす」
うん。わたしも大分、中村さんの言いたいことが読めるようになってきた。
人が言ってること、そう何回もわかりませんって聞き返したくないもんね。
言いたいことが予想できたら、なんとなく言葉の意味もわかる。中村さんも、できるだけわたしが使う言葉を織り交ぜて話してくれるようになったから、意思の疎通はわりとスムーズ。
これはたぶん…すいません、おれは?今日は用事があります?だよね。
「いっき藩邸の外に出っで、今日は」
「うーんと、すぐに?藩邸の外に出るから、今日は一緒できない、ですよね。そうなんですか…」
思わず視線を俯けると、中村さんが慌てた気配がした。
あ。気を遣わせちゃったかな。
「あ、いいんです、お仕事がんばってくださいね。いってらっしゃい!」
そう言って顔を上げると、中村さんは一瞬驚いた顔をしたあと、はにかむように苦笑した。
ん、苦笑?なんで苦笑?
何か変なこと言ったっけ?
「あいがと、いたっくっで。じゃっどんそげんもじょかこっゆんほいならん。おいになもったおらんち」※ありがとう、行ってきます。でもそんなに可愛いことを言うんじゃない。俺にはもったいないよ
「え?え???」
さっきまでとは全然違う。全然わからない。
でも、それは言葉だけじゃなくて……さっきまでは大久保さんに話すのと同じような口調だったのに、今のこれはわたしが慎ちゃんや以蔵に話すみたいな気軽さを感じる。
もしかしたら、ちょっとは打ち解けてくれたんだろうか?
そう思うか思わないかのうちに、中村さんの大きな手がぽん、とわたしの頭を撫でた。
「そいから、中村さぁ言うんはげんね。半次郎でよか」※それから、中村さんっていうのは恥ずかしい。半次郎でいいよ
口調はそのままで、またわかりやすい言葉になる。
中村さん、と言うのは、げんね?だから、半次郎で、いい?
「半次郎さんって呼んでいい、ってことですか?」
「そいでよか」
確認すると、またぽん、ぽん、と掌が上下する。
今までより気安い態度も、ふわりした笑顔も嬉しくて、わたしは大きく頷いた。
「ありがとうございます!じゃあ、わたしのことも、お嬢さんじゃなく───」
「小娘。茶ひとつにいつまで時間を掛ける気だ?」
言いかけた時、廊下の先からすっかり忘れていた声がして、大久保さんが姿を現した。
やばい!声だけでめちゃめちゃ不機嫌なのがわかる!
「私の時間は貴重なのだ。おまえのそれと同じに扱うな」
うう、いつかどこかで聞いたセリフだ。
いつの間にか、中村さん…半次郎さんは地面に膝をついて下がっていたので、わたしは慌てて大久保さんに向き直った。
「ま、まだお茶の蒸らし時間は過ぎてないですよ?ほら、あと……あと……」
うわっ、あと20秒!?
腕時計のデジタルさが憎い。すぐ部屋に戻らないと間に合わない!
わたしは仕方なく半次郎さんに挨拶して、大久保さんを待つことなくさっさと部屋に戻った。
◇ ◇ ◇
「全く。おまえのいい加減さには呆れる」
お茶を淹れる間も、飲む間も、大久保さんはぶつぶつと文句を言い続けていた。
味には文句をつけないところを見ると、ちゃんといつも通りに淹れられたんだから、結果オーライでいいと思うのに。
だいたい、邪魔されたのはこっちだよ!あー、せっかく半次郎さんと仲良し会話ができてたのにー!あんな機会もう二度とないかもしれないのに!
考えると腹が立ってきて、わたしは自分のお茶をぐいと煽り、お盆の上にたんっと置いた。
「もう、いつまでもぐだぐだ言わないでください!うっとうしい!」
「何だと!」
「暇なわけじゃないんだから、お仕事でもしたらどうですか!わたしもこれ今日中にやっちゃわないと駄目なんですから!」
「無理にやる必要はない、今津に突っ返せばいいだろう!」
「そんなことできませんよ!もー、英語もともと得意なわけじゃないんだから、お昼ごはんで癒されるつもりだったのにー!」
あ。しまった、これは八つ当たりだ。
別に大久保さんが半次郎さんとのごはんを邪魔したわけじゃない。用を言いつけたのは大久保さんかもしれないけど、まさか邪魔をするために言いつけたなんてことはないだろう。
謝ろうと背けていた顔を戻すと、大久保さんはなぜかそれに反応するように視線を外した。
ん、なに?
「……まあよい。得意であろうとなかろうと、小娘はえげれす語になかなか精通していると聞いている。
やり始めてしまったのなら、最後までやっておけ」
「は、はあ。そりゃそのつもりですけど…?」
すっと話が変わってしまって、謝りそびれちゃった。
なんだろう。大久保さん、なんか気まずい感じに見えるけど、何に反応したんだろ?
お昼ごはんを一人で食べたくないっていうのを気遣ってくれたんだろうか。大久保さんは毎日お仕事をしながら食事するから、一緒には食べられないんだよね。
いっそ女中さんたちと同じ時間にずらしてもらおうかと考えていると、お茶を飲み終わった大久保さんが、わたしと同じようにお盆に湯飲みを置いた。
「そろそろ行くぞ」
「へあ?」
「間抜けな声を出すな。今日はこれから夕刻まで時間がある。たまには外で飯を食わせてやろう」
「!!!」
大久保さんが!
あの、藩邸の外に出るな出るな出たら殺されるぞ拷問に掛けられるぞと、小姑みたいに口を酸っぱくして言っていた大久保さんが!?
「え、あの。そんなに嫌なわけじゃないですよ?そこまで気を遣われるほどでは……」
「小娘に気なぞ遣うわけがないだろう。なんだ、私と出かけるのは気が進まんとでも言うか」
「そんなことはないですけど、でも、危なくないんですか?」
「小娘一人守れんほど腑抜けではないつもりだが?」
「いやいやいや、違いますよ。わたしといて、大久保さんは危なくないのかってことです」
ここに来た最初の日、わたしはセーラー服でかなりの距離をうろうろしてしまったから、外国と関わってるんじゃないかって目をつけられた可能性があるらしい。
いざこざが起きた時に、公に出られない人が一緒にいると、その人まで巻き込まれて大事になってしまうんだって。だからわたしは寺田屋も長州藩邸も選ばなかった。
特に、新撰組のお偉いさん?に見られたらしくて、捕まったら拷問されるんだそうだ。
それを聞いて、『捕まったら拷問される前に全部しゃべりますからね』と断りを入れたら、大久保さんは呆れた顔をして『ならば、しばらくは外に出るな』と言ったのに。
「どんな格好で歩いていようが、私が共にいれば問題にはさせん。行くぞ」
「あ、待ってください!」
わたしはスクバからハンカチとかを入れたポーチを取り出すと、振り返りもせずにすたすた行ってしまった大久保さんを追いかけた。
つづく?
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