赤い月が見える。
「………………さ……」
赤い赤い、歪んだ月。
それを見上げる、鬼とわたし。
「……………し、て」
いや、そうではなくて。
そこにいるのは、鬼になったわたし。
「………め………さい…」
赤い赤い血の色に、薄蒼い静寂が染まっていく。
当たり前のように響く、大切なひとたちの声。
『俺たちの力は、世の為にある力なんだ』
わかってる。
『その血がなければ、キミは対魔師なんかにならずにすんだ』
わかってる。
『さすが、鬼に捧げられた血ですね』
そんなこと、わかってる。
誰よりもわたしが、わたしの裡が知っている。
いつか生け贄に差し出され、食らい尽くされるための命。
『その力を郷のために遣ってくれないか?』
『キミのあの力なら、あの女を止められるかも』
『その為の血、ですから』
「ごめんなさい」
「許してください」
その運命に逆らったわたし。
育ててもらった恩を、何より大事な任務を、人々を守る正義を、そしてあなたたちの期待を裏切ったわたし。
どうして、望みなんか持ってしまったのだろう。
物に意思などあってはいけない。まして、最後の切り札として大切に隠されてきた最強のカードなら尚更、そんなことは許されないのに。
なのに何故、あのとき自分の中にある熱に屈してしまったのか?
『その血は鬼を狂わせる。遠く浮かぶ真円の月のように』
いま手を伸ばせば必ず手に入ると知っていたから。
◇ ◇ ◇
「………う……」
重苦しい頭をわずかに持ち上げて、わたしは息を吸おうと懸命に口を開けた。
苦しい。酸素が足りない。そんな思いは一瞬で、意識が戻るにつれだんだんと呼吸が通る。
しばらく浅い息継ぎを繰り返してから、ようやく瞳を開けると、そこには真暗い深淵があった。
眠る時は光源をまったく無くしてしまう習慣だから、寝室に月の光は差し込まない。
けれど今、それは円かを描いているだろう。
ぐるぐると血が巡る心地がする。
「……ああ……だから、か……」
この夢見の悪さは、そのせいか。
もうかなりの時間が経つのに、未だにこんな夢を見る自分に少し感心する。
後悔などしていない、と言うにはあまりにも重い枷。けれど、確かに後悔はしていない。
どんな罰を受けても、わたしには
「……んだよ……こんな夜中に……」
眠そうな、重苦しさのかけらもない声。
なんとか動くようになった体を起こして、わたしは狭いベッドの端に腰掛けた。
「寝てていいわよ。お風呂はいってくる」
「……風呂……?なんでまた……」
寝ぼけながら、壱人はこっちに手を伸ばしてくる。
抱き枕じゃないといくら言っても聞かず、まるで湯たんぽのように抱き寄せる腕を避けながら、わたしは聞こえないように深呼吸して立ち上がった。
「乙女の事情。ついてきたら刺すからね」
「……あん?なんだよ、事情って」
「聞きたいの?ほんとうに?」
「当たり前だろ」
「生 理 よ」
「…………・・・」
「いやあね、普通そんなこと女の子に聞く?変態だ変態だと思ってたけど、そんな趣味だなんて」
「おまえが勝手に言ったんだろうが!」
「聞きたいって言ったのあんたでしょ。いくらあんたでも、覗きにこないでよ?」
「誰がんなもん覗くかよ……」
怒る前に脱力した壱人を残して、わたしは寝室を出た。
気づかれてはいけない。
わたしが何をしようとしているか。
バスルームに入り、タオルや着替えと一緒に持ってきた符箱を床に置く。
一応、このマンション全体にもそれなりの防護を施してあるけれど、念には念を入れた方がいい。
呪を唱え、ゆっくりと符を弾く。
小さな箱のような浴室は、結界を張るのにちょうどよかった。排水口さえ塞げば何もどこへも染み込まないのも好都合だ。
きれいに張られた白い膜のような結界を眺め、確かめると、わたしは徐に符箱からナイフを取り出す。
特別、感慨とか緊張とかそういうものはない。
けれど、彼は気配に聡いから、気を揺らせば見つかってしまうかもしれないと思った。
だから心を落ち着けて、気を整えて、呪まで唱えながらすぱりと一気にやったのに。
骨が見える程に切れた手首から一気に吹き出したあかいものを見て、たったいま見たばかりの夢が頭を過ぎった。
『その血は鬼を狂わせる。遠く浮かぶ真円の月のように』
刹那、静寂が辺りを支配した後、かすかにベッドから落ちたような音がした。
駄目だ。今の動揺は酷かった。外の結界は大丈夫だと思うけど、ここの結界では隠せないほど気が乱れたみたいだ。
遠くからバタバタと足音が近づいてくる。
内心取り乱しながら、そんなに慌てなくていいのにバカだなあ、と思わず笑ってしまった。
外の護りは紫紋の結界。わたしの敵が中に入ることなんか、できるはずないのに。
「おい!なんだ今のは!敵襲か!?」
案の定、誤解した声が薄いドアを叩く。
うまく答えてごまかしたいけれど、どんどんと血が流れていく頭は急激に冷たくなって、まともに廻ってはくれない。
だいじょうぶ、と呟いた声音は、自分でもちっとも大丈夫そうじゃなかった。
それを感じ取ったのか、壱人はついにドアを蹴り上げて中に踏み込んできた。
「……!!」
瞬間、彼の瞳が大きく見開かれる。
わたしの身体から、絶えず湧き出る稀なる血。
視線がそこに釘付けられるのを見て、かえって動揺が醒めた。
これがきっと、わたしに科せられた一番の罰。
200年も鬼として生きてきた、しかも今や使役鬼となった彼には、この血はどれほど甘露に映るだろう。
取り込めば取り込むほど、強大な力を得られる。わたしの支配を逃れることも、世を手中にすることもできる、はず。
できるなら、彼にはそんな餓えた瞳で見られたくなかった。だからわざわざ準備をしてこんな狭いところで術式を行ったのに、ここで見られてしまっては意味がない。
でも、それは、仕方のないことなんだろう。何よりも力を求める彼だから。
『体液にも同様の力を含んでるのか』
そういえば、あの郷でそんなことを言ったのも彼だった。
ああ、そうか。
別に理由を告げてそういう関係になったわけではないけれど、もしかしたら、あれもこれも全部そういうことなのかもしれない。
唇から、眦から、身体から、あふれるわたしの力を求めていただけ。そう考えた方が、しっくりする。
それが被害妄想を含んでいるのは自分でも気づいたが、ではどの程度含んでいるのかというと、少しも見当がつかなかった。
わたしは小さくため息をついて、鮮血の溜まっている桶に手をついた。
「大丈夫。別に誰かに襲われたわけじゃないわ」
「……!」
「だから、少し静かにして。あなたが使うならともかく、もし外に漏れたら」
「、おい!」
なるべく普通に振る舞おうとするわたしを、それまで無言で凝視していた彼の声が遮る。
壱人はずかずかとバスルームに入ってくると、少し出血が弱まってきた手を強引に掴んだ。
「や、ちょ、待っ……!」
「このバカ!!何なんだよこれは!!」
「何って…、あ!駄目、それっ!」
「ああ!?」
引き止めようとした時にはすでに、がっしゃん、とその足が桶を蹴り飛ばしていて。
安っぽいプラスチックの桶は簡単に宙を舞い。
バスルームのタイル一面に、粘り気のある雫が見事に飛散する。
「……………あぁあああ」
なすすべもなくそれを傍観してから、わたしはがくりと血の池に膝をついた。
最悪だ。いくらなんでも、これは酷い。これをどうやって回収しろというんだろう。
一滴でも残したら、どんな惨事になるかわからない。でも、これはいくらなんでも……。
このまま全てを投げ出してしまいたくなったわたしに構わず、壱人はわたしの手に自分のシャツを巻きながら、妙に焦った声を出した。
「おい、大丈夫かよ!ええと、こういうときは救急車、救急車だな!?」
「……は?」
「待ってろ!そのまま動くんじゃねーぞ!?」
「や、あの、待ちなさいってば!救急車って何よ!?てか、そのまま外に出るな!!」
「何って、そんだけ血が出てたら……ああ、動くなって!おまえ、俺に不満でもあんのかよ!?」
「へ……?」
「突然手首切るとか、信じらんねえ!俺にひとっことも相談無しに自殺とか」
「はあぁ?」
ぽかん、と、間抜けに開いた口が塞がらない。
自殺?自殺って……、まあ、普通の人ならこの光景を見てそう思うかもしれないけど。
でも、わたしの身の上も素性も能力も、血の縁だって知っているはずの彼が?
「………あー。あのね、壱人?」
「なんだよ!」
「えーと、どこから突っ込んでいいのか分かんないけど。とりあえず、救急車は要らない」
「あぁ!?」
「てか、自殺じゃないから。そもそもわたしがこのくらいの出血で死ぬわけないじゃない?」
「……………」
「腿とか首とか、もっと太い血管を完全に切れば死ねるかもしれないけど、手首くらいじゃ先に傷が治っちゃうよ。
わたしの命は、鬼に捧げるために一瞬では終わらないようにできてるんだって、あなたが言ったんじゃない」
「……………」
長い生の中で高名な歴史家や識者に取り憑いた彼の知識は、直系の子孫であるわたしが聞いていたものよりも詳しかった。
「そんでもって、これは自殺でも自傷でもなくて、単に古い血の入れ替えをしてるだけ。
月が満ちるたびにわたしの血は澱んでいって、精神的にも身体的にも無理が来る。だから血抜きするんでしょ?」
これも、彼がよくわからない理屈込みでわたしに語ったこと。
それまでだって血抜きはしていたけれど、月がどうとか満ち欠けがどうとかはよく知らなかった。まあ、知っていたってやることは変わらないんだけど。
「全部、あんたがえらそうに言ってたことじゃないの。なんで自殺とかいう発想が出てくるのよ」
「……………」
壱人は、さっきのわたしのようにぽかりと口を開けて、何度も何度も瞬きをした。
「……………あー、その」
「うん」
「じ、じゃあなんでこんなとこで一人でやってんだよ!?」
「たかが血抜きをするのに、人の手はいらないわ。見て楽しいものでもないし、見せて楽しいものでもないでしょう」
「気にいらねぇ!俺はそういう、知らねーところで知らねー間になんか起きてるのが一番気に入らねえ!」
「あー、ハイハイ。……祇王も愁ちゃんも虚空も、この時だけは一人にしてくれたのに」
やや脱力しながらそう言うと、途端にギラリとした目がわたしを睨む。
「変成もできねえヒヨッコや甘やかし兄ちゃんや枯れた爺みたいな童子と一緒にすんじゃねえよ!」
「うわ、ひどっ」
「茶化すな!おまえのことで俺の知らねえことがあっていいわけないだろ、俺はおまえの」
「………おまえの?」
はたと口を噤んだ言葉尻を取ると、壱人はうるせぇ、と拗ねたように視線を背けた。
どうしよう。
なんだか、少し楽しくなってきてしまった。
お互い血塗れの状況も、これから始末に苦労することも変わりはないのに。
思わずクスクスと笑いながら、わたしは手を伸ばして浴室のドアを閉めた。
飛び散ったのが浴室内だけだったのは幸いだ。ここさえどうにかすればいいんだから。
「でも、こうなったら手伝ってもらうしかないわね。はい、さっさと後片付けを始めなさい」
「こ、これをかよ!?」
「ぶちまけたのはあんたでしょうが。別に、欲しけりゃ飲んだっていいけど」
そんなことまで言えてしまうほど、わたしは浮かれていた。
もし、彼が目の色を変えてそれを貪りだしても、ちょっと肩を竦めるくらいでたいしてショックじゃない。なんとなく、そんな気がしたから。
けれど彼は、その提案に眉を顰めて、嫌そうな顔をした。
「うっぇ、何の因果でこんな冷たくなったモン啜らなきゃなんねーんだ。頼まれても嫌だ」
「え、そうなの?……欲しがるかと思った」
「俺の口には合わねえよ。悲鳴や反撃や迸る血もいいが、それよりもいいもんを知っちまったからな」
「いいもの?……??」
不思議そうに首を傾げたわたしに、壱人は低俗な笑いを浮かべると、固まり始めた血がべとつくのも構わずにわたしの耳を引き寄せた。
「嬌声と抵抗と熱を帯びた体液、それから震えるアンタの声で命令 されなきゃイケねえ」
「……!!」
「そうだ、汚れついでにココで色々やるってのは?うっわ、考えただけでそそる!それなら喜んでお手伝いし」
「一人でやってなさい!!!」
ぶぉん、と感情にまかせた強大な力が弾け、それを一身に浴びた壱人は、その命令に従うしかなかった。
END. |