「…………えぇっと」
目の前の光景を理解しようとしただけなのに、何だかえらく前の記憶から反芻し始めてしまった事に困惑しながらも、仕方なくそれを追いかける。
現国王と王妃である両親との取引は、一ヶ月弱の期間中に一千万G貯めること。
選択の余地がなかったとはいえ、大通りのカジノを何店舗も一勝負でやり取りするロベルト=クロムウェルじゃあるまいし、自分自身の人生なんてよくも賭けられたものだ。
自分でも呆れるばかりだ。
始めは軽く考えていた……軽くと言うのは語弊があるかも知れない。
一千万Gなんて無理難題だが、協力者は幼馴染みや顔見知り程度の面識はある者ばかりだし『プリンセスの婚約者候補』という国内で有力者の地位を確固たるものにできる肩書きが付くのだから、利用出来るものは利用して自由を手に入れると息巻いていたのだ。
ギブ&テイクのいかにもギルカタールらしい考えで全員と同行してみて、選んだのは悪徳商人と誉れ高い男で。
候補者の中で一番体力が無いくせに偉そうだという印象が強かったけれど、レベル1の自分がざくざく歩けるような、街に程近い砂漠のモンスター相手には問題無かったし、どうせ強い者も本気で手助けする事を禁じられている。
それなら婚約者候補になった事を『商人としてのハクがつく』と言いきったコイツの方が、疎遠になった幼馴染みより利用しやすい。
おまけに嘘か本当か知らないが、医者を兼業しているらしいので何かと便利なんじゃない?
きっかけなんてその程度だった。
迫り来る運命の期限、王宮内から急に拓けた視野、婚約候補者はなんだかんだ言っても協力的。
自分には魔法が掛かっていたのだ。
こんなに簡単にほだされるような女はギルカタールでは生きていけない。
分かっている、情けない。
たかが十数日一緒に居ただけ。
たまたま祭り見物を一緒にしただけ。
浮かれ気分の中で愛を囁かれたような気がするだけで。
馬鹿みたいに早起きして、彼の仕事場兼住居にいそいそと通い。
そして彼の自室から女が出て来るのを見てしまった、と。
整理して理解出来ても、どうすればいいか分からない。
立ち尽くす私に気付かずに、部屋から顔だけ出して女と言葉を交わす彼は眠そうだ。
それに比べて、高級な服とは言い難いもののこざっぱりとした身なりの相手は笑顔で、彼よりも少し年上に見える。
状況が飲み込めた後すぐにきた、ザァ、と髪が逆立つような感覚はきっと、ギルカタールの人間なら誰でも知っている。
瞬間的に殺意が湧くことは誰でもあることかも知れない。
しかし今の自分は、なりたいと連呼していた『普通』ではない現実的な意味合いの殺す、という選択肢を、妙に冷静な自分の声がかろうじて抑えている状態。
眠そうだった彼の目が、がらりと色を変えてこちらを睨んだ。
当たり前だ。
殺気は、この国では読み書きより早く覚えなければいけない気配なのだから。
距離があるので相手の女には気付かれていないようだが、彼ほどの有力者が気付けなければ今、生きてはいないだろう。
一瞬後、彼はびっくりしたように目を丸くして半開きだったドアがすごい勢いで壁にぶち当たり跳ね返った。
「ひ、姫さんっッ!?」
跳ね返ったドアに体をぶつけながらも、慌てたように髪を掻き上げ整える仕草を見せる彼。
触角が二本だろうと三本だろうと、それはさほど重要な事柄ではないのに。
彼の上擦った声を聞いて振り返った女性が、こちらにも柔らかい笑顔を向ける。
ザザザとなおも這い登る気配を抑え込んでから、自分も笑顔を作って距離を詰めた。
「おはようMr.ブランドン。同行のお願いに来たのだけれど……お邪魔だったかしら〜?」
ニィ、と笑って女性を見る。
友達を冷やかすようなからかうような視線で。
「いや、違っ!誤解するなよ!?」
「誤解も何も朝帰りの図そのまんまじゃない?お医者さんのくせに……いかがわし〜♪」
ニヤニヤと笑いながら寝乱れた風に皺になっている白衣を眺め回す。
心の内を見せない技はライル先生直伝。
親の葬式でも必要とあらば楽しそうに大笑いできる自信がある……そう思っていた。
「違うって!こいつは昔一緒に住んでただけ!!」
一緒に住んでた……だけ??
思わず目が点になった。
言い訳をしたいらしいが、全く逆方向からカウンターパンチを食らわせてどうする。
「あ゛あぁ〜〜何て言えばいいんだ……っ!ちょっ、姫さん!?落ち着け、落ち付けって!!」
カウンターパンチのおかげでせっかく抑え込んでいた気配が漏れたらしい。
その綻びから一気にどす黒い感情が噴き出る。
彼は慌てたように女の前に立ちはだかった。
「腹に子供がいるから手荒なことすんじゃねぇぞ!?」
ひゅう、っと風鳴りを伴い、彼の後ろの壁にサクサクリと突き刺さる護身用具。
髪飾りを装ったニードルと呼ばれるそれは、普段ヴェールの内側で鞘に収まって櫛の役目をしている。
近距離戦には向かないが、だからこそ気配をいち早く悟れることと確実に狙った所に当てられるよう訓練されてきた。
こんな男の為に、どうして私が気を遣って友達の振りなんかしてやらなきゃいけない?
いっそ、当たっちゃえば良かったのに。
幼少から無駄に鍛えられた技が恨めしい。
「………今日は他を当たるわ。お幸せな雰囲気に当てられて何だか殺してしまいそう☆」
誰を、とは言わず、にっこり笑って踵を返した。
率直なご意見が出てしまう辺り、母親の血が濃いのだろうか。
しかも幸か不幸か、すぐにでも実行出来てしまう立場でもある。
王室御用達の暗殺チームを動員するまでもなく北のスチュアート、南のタイロン、稀代の暗殺者と謳われるカーティス=ナイルだって自分には何となく好意的だ。
”ちょっと待て”だの”話を聞け”だのと大声で呼び止める声にイライラが募る。
その場を動かないという事は、その女が大事だと言わんばかりだ。
ゆったりとした歩調で急がず慌てず病院の玄関を通り過ぎ、ゲートまでの石畳の道を歩く。
もう一言二言掛かれば左側の髪飾りが眉間に飛んでしまう所だった。
「……まあ、大陸一番の偉〜いお医者さんならサソリの猛毒くらいちゃちゃっと治せるのかも知れないし、一発くらい当てとけば良かったかなぁ………試しに」
追いかけないように脅した。
追いかけられないように殺気を抑えることもしなかった。
でも、追いかけて欲しくなかった訳じゃない。
角を曲がった所で走り出し、歩いて十分の距離を全速力で駆け抜けて、驚く番兵を押しのけるように門をくぐり自室に飛び込んだ。
部屋に入ってきたチェイカが五度目の取り次ぎの要請を知らせた。
気遣わしそうに名前は告げず、それが返って相手を明確に表す。
彼女は扉の側に立ったまま、ベッドの天蓋を閉め切った自分の返事を待っている。
「断って」
一切の面会を断るように言いつけてある。
にもかかわらず、彼女がいちいち知らせて来るのは何か思う所があるのだとは分かるが、今は他人を思いやれる心境ではない。
「でも…あの、宜しいのですか……?」
期限は目前であり、取引に負ければ意に染まぬ相手であっても婚約→結婚はつつがなく執り行われる。
長年仕えてくれているチェイカは、家庭教師のライル同様いつも最後には自分の味方をしてくれて。
『普通になりたい』などという、犯罪国家と名高いギルカタールのプリンセスらしくない夢を語ってもニコニコと聞いてくれ、励ましてくれた。
呟かれた言葉は、あれほど頑張っていたのにここで投げてしまって本当にいいのか、という控えめな非難だと思った。
「いいの。やっぱり普通になることなんて夢だったのよ。……ちょっとはプリンセスらしくしなくっちゃね」
声色を使って答える。
ギルカタールらしい才能は無駄に溢れている自分は、このまま最終日まで寝て過ごし、誰かと結婚して女王か王妃になって一生を終えるのだ。
何となくそれが当たり前のことのように思えてきた。
今は何もかもどうでもいい。
「…………シャーク=ブランドン様がお好きなんでしょう?」
チェイカの言いたいことは考えていたのと違っていたらしい。
ため息と一緒に呟かれた名前に肩がピクリと反応してしまう。
今一番聞きたくない名前なのを知っていて口に出したと言うことは、このままうやむやにして引き下がってくれる気は無いらしい。
諦めて天蓋のカーテンを少し引いて顔を見せた。
「ええ好きよ。自分の馬鹿さ加減を思い知らせてくれたとこなんてだーい好き♪」
「……何かあったのですか?今朝まであんなに楽しそうにしてらっしゃいましたのに」
「何にもないわ。夢よ、夢。目を開けて寝てたのよ。私ったら馬鹿よね〜☆」
テヘッとわざとらしく可愛い子ぶって見せる。
チェイカは不審な目でじろりと睨んだ。
「……何よ、その目は」
「ご主人様って本っっ当に不器用ですのね…ちゃんとお話なさらないと解ける誤解も解けませんわ」
はぁ、とため息を吐いて軽く頭を振って見せる。
その口振りだと彼に何か聞いているのかも知れない。
「誤解なんかしてないわ。…してたとしても別にいいのよ、あんなゴキブリ男。成り上がりの悪徳商人兼いかがわしいヤブ医者のくせに、偉そうで失礼で自意識過剰で強欲で卑怯で嘘つきで金勘定しか頭にないアンポンタンなんだから!!」
言っているうちにムカムカと腹が立って、ありったけの声量で叫んでしまった。
一息で喋ったせいではぁはぁと息を切らしながらチェイカを見ると、珍しく焦ったような顔でしーっしーっ!と口に指を当てている。
「何よ?この部屋にはあんたと私以外……」
いないんだからいいじゃないの、と続けようとした時。
低い声がドアの後ろから響いた。
『………アンポンタンで悪かったな』
「!!?」
ぱくぱくと口を動かしてドアを指差しながらチェイカを見ると、彼女は頭痛がする時みたいに額を押さえて目を逸らしたままこくんと頷いた。
『偉そうで失礼で自意識過剰で強欲で卑怯で嘘つきで金勘定しか頭にない成り上がりの悪徳商人兼いかがわしいヤブ医者の俺が、あんたに話を聞いて欲しいが為に商売放っぽって来ましたよ、プリンセス?』
怒っている。
静かな声だが間違いなくかなり頭に来ている。
怒りのオーラでドアが禍々しく歪んで見える気さえする。
あれだけの悪口を残らず復唱するくせに”ゴキブリ男”だけは言わない所を見るとそれが一番堪えたのかも知れない。
怯みかける気持ちを立て直し、ドアに向かって不敵な声を出した。
「あら、いたの?盗み聞きなんて姿に似合った趣味ですこと」
『…………………』
「御用聞きなら王か王妃にどうぞ?私にはあんたの融通する武器や毒薬は必要ないの。…あぁ、でもやっぱり悶え苦しんで死ぬ毒薬をひとつ貰おうかしら?待ってて、今お茶を淹れるから。それともお酒の方がお好み?」
『…………………』
「前から思ってたんだけど、あんたの服って何で襟とか袖とかフリフリしてんの?ロリィタ服が好きなの?今度プレゼントしましょうか、レースとフリルとリボンの可愛〜いフリッフリのドレス。クローゼットにあるんだけど私着ないし」
『…………似合わないから着れねぇの間違いだろ?』
「何ですってぇぇ!?こ……っのゴキブリ男!!」
『うるっせえこのがさつ性悪女!王女様が聞いて呆れるぜ、メイズの方がよっぽど品があって女らしい。しかも可愛い』
「変態ブラコン………キモッッ」
『………〜〜〜っっ!二度と来ねぇからな……っっ』
「来てって頼んだわけじゃないわ。さっさと帰れば?私これから優しくて強い婚約者候補とデートなの。あぁ、でも”候補”じゃなくなるかも知れないわ、結婚式には来てね?」
返事の代わりにダンッ!とドアが叩かれて気配が遠くなる。
「………ご…主人様……」
言葉が出ないチェイカに構わずベッドのカーテンをビシャリと閉め、布団を頭から被った。
ああああああ最悪だ。
何もあそこまで言いたかった訳じゃない。
自己嫌悪にどっぷり浸かっているとチェイカの小さな声が聞こえた。
「……蛇足でしょうけど、会ってくれなかったら伝えてくれと頼まれた伝言がありますわ。”あの女はガキの時からの知り合いで、昔、俺が仕事してる間弟の看病をする為に一時同居していた。今朝は父親の分からない子を身籠もってしまったらしいと相談にきたんだが、夜の商売を終えて来たからあの時間だっただけでやましい事は断じて無い”だそうです」
昔、ということはメイズではなく実弟の方だろう。
この国では血が繋がっていなくても仲間を身内と呼んで特に大切にする風潮がある。
殺気を撒き散らした私を前にして、恩のある身重の身内の傍を離れる訳にはいかなかっただろう。
それでも私の誤解を解く為に、何度も足を運んでくれた。
それこそ、患者も商談も放ったらかしで。
「……だからちゃんとお話しないと、と申し上げましたのに…呼び戻して参りましょうか?」
勝手に通した責任を感じているのだろう、困惑した声でチェイカが言った。
「……いらない。一人にして」
今ならまだ王宮内にいるだろう。
けれどあれだけの悪口雑言を、ものの五分で素直に謝れるはずがない。
それに、彼は商人でのし上がってきた人。
口の旨さは折り紙付きで、本当に恋人がいたとしても上手く隠し通すくらい訳はない。
婚約者候補になるのだから恋人はいない、と考えるのがそもそもの間違いで、地位と権力を手に入れるチャンスをみすみす逃すくらいならこの国で有力者になどなれはしない。
恋人がいても、万一結婚していたとしても、辞退する者などいないだろう。
チェイカが諦めた様に退出する音を聞いて布団から顔を出す。
「………あんな男でもお金持ちだし、顔も悪い訳じゃないし、ちょっとは優しい所もあるし…恋人の一人や二人いたはず!絶対そうよ!」
彼がそう言ったからって今朝の女性がシャークの恋人じゃないという保証は無い。
そうでなくても国でも有数の実力者、しかも自力でその地位にある人に恋人がいないなんて信じられない。
もう一息の所で機嫌を損ねた馬鹿な王女を口先三寸で丸め込めるなら、患者も商談も放ってくるだろう。
その先には莫大な利権が待っているのだから。
「……騙されなくて良かったのよ」
ぽつりと独り言を漏らして、もう一度布団に潜った。
脳裏に、勝手に浮かんでくる声や姿から逃れるには眠るしかない。
お気に入りのぬいぐるみに顔を押しつけて無理やり目を瞑った。
「遂にこの日が来たな。アイリーン、首尾はどうじゃ?」
最終日、晩餐の席で王は殊の外機嫌が良かった。
所持金が足りない事もこの三日間外出してない事も知っていて、諦めたと思っているのだろう。
事実その通りだった。
明日が来れば親の決めた婚約者ができ、適度な期間を経た後結婚し、子供を産んで。
両親はさぞかし安心するだろう。
「一時は嫁に行き遅れるかと心配したがの。何しろおまえは妃に似て……」
「……あら、どうして私に似ていたら行き遅れるのかしら?」
王は顔同様、気も緩んでいたらしい……明らかに失言だった。
一瞬にして部屋中に緊張が走る。
「い、いや!アイリーンは妃に似て美人じゃから高値の花になって男に声を掛けられることもなく…」
「まぁ、ホホホ……私は貴方に声を掛けて頂きましたわ。つまり、その程度という事ですのね?」
ヒュッ、ガッシャン!
王妃はニコニコ笑いながら目の前の皿を王の顔めがけて投げた……らしい。
正直、目で追いきれなかった。
「きゃあ、ご主人様!?」
チェイカが悲鳴を上げて自分に駆け寄ってくる。
「え…?何………」
「お顔が……っっ…」
そう言ってハンカチで頬を抑えられて初めて、ピリッとした痛みが走る。
どうやら王が避けて椅子の背で割れた皿の破片が、自分に飛んできたらしい。
チェイカがハンカチを離すとつつっと、生暖かい物が頬に流れた。
「ご、ごめんなさいねアイリーン!どうしましょうっ…」
「妃を、妃を責めるな!余が避けたのが悪いのじゃ!」
「……いや、このくらい大丈夫…」
「いいえ!お顔に傷でも残ったら大変です!」
出血量や痛みからして大して深く切れて無さそうなのに、チェイカはおろおろしながら騒ぎ立てる。
つられるように王まで慌てて叫んだ。
「うむ、直ちに医師を呼べ!」
「私が伝聞を飛ばします!」
チェイカが即座に印を結んで目を閉じ、ブツブツと呪文を唱えた。
指の中で出来た丸い光の輪がふわりと浮かび、消し飛ぶ。
「チェイカ、医務室くらい自分で行くから……」
あのおじいちゃん医師なら呼び出すより行った方が絶対に早い。
走ったりしたら、この場に辿り着くより早く違う世界に逝ってしまいそうだ。
いや、びっくりした時点で駄目かも。
ぼんやりとそう考えていると、扉の向こうからバタバタと慌てたような足音が聞こえた。
王宮内では警備上の理由からマジックアイテムで移動出来るポイントは限られている。
そこから走ってくるのは老人にはキツイだろう。
「ヤバイって!先生死んじゃうって!慌てなくていい……」
言い掛けた所で、バターン!と蹴破るように入ってきた人物を見て、息が止まった。
「……失礼致しますっ…」
「おぉ、待ちかねたぞ!」
「プリンセスが御怪我なさったとの伝聞を見て急ぎ参りました…っっ…ギルカタール王の御前で挨拶を省略の無礼、平にご容赦下さいますよう」
「良い、許す!アイリーンを早う!」
許しを請いながらも既にこちらに向かって大股で歩いてくる男を、見ているしか為す術は無い。
いつも引っかけているだけの白衣の前をきちんと留めると派手な普段着はそれほど目立たず、父王に対する礼儀正しい口調は本当に偉いお医者さんみたいだ。
いや、実際に医者なのだけれど。
そうじゃなくて、何故この場に息を切らせてやってくるのが彼なんだろう?
「プリンセス、王室付き外科担当医のシャーク=ブランドンです。……御怪我を拝見致します」
跪いてそう言うと、チェイカが傷を抑えていたハンカチを外した。
指先がそっと触れて傷の深さを確認し、持っていた黒い鞄から液体の入った瓶やガーゼを取り出す。
顔が……近い。
真剣な目に間近で見つめられて、一気に頭に血が上った。
「痛みますか?」
「いっ……いいえ、それ程は」
ぴたぴたと頬に濡れた脱脂綿が当たる。
消毒の後、薬が塗られてペタリと絆創膏が貼られた。
その程度の傷なのに。
「どうなのじゃ?よもや傷が残ったりすまいな!?」
「大丈夫です。薄く鋭い物での御怪我だったようで、出血量も少なく縫合の必要もございません。五日ほどで完治致します」
「そ、そうか。良かった…ご苦労であったの」
「……しかしながら、プリンセスは少々お熱があるように見受けられます」
ホッとしかけた王の顔が曇る。
「そういえば朝からぼんやりしておった……無理が祟ったのかも知れぬ。部屋へ運んで然るべき治療をいたせ」
「御意」
言うが早いがひらりと抱き上げられ、食堂から連れ出される。
「………ちょ、ちょっと!何が御意よ、熱なんかないってば!!」
抱きかかえられたまますたすたと廊下を歩いている所で、やっと我に返った。
展開について行けなかっただけで、見とれていた訳では断じて無い。
思い出したようにバタバタと足を動かして抵抗する。
「は、離してよ!は〜な〜せ〜〜っっ!」
「………っち、静かにしてな。痛い注射を腕によりをかけて痛く打つぜ?」
「……う…っっ……」
じろりと見下ろされて体が竦む。
注射より、彼の目の方が恐ろしい。
三日前もドアが開いていたらあそこまでの悪口は言えなかっただろう。
肉食獣の前に裸で放り出された気分で、それ以上言葉が出なかった。
自室に到着すると手荒くベッドに放られた。
どう考えても王室付きの医者がプリンセスに対する態度ではない。
スプリングで体がボンボンと跳ねる。
「ぎゃあ!い、医者だったら怪我人は丁重に扱いなさいよっっ」
「そんなの怪我の内に入らねーよ。……何で切った?わざとか?」
「は?何でわざと怪我しなきゃならないのよ。王と王妃の夫婦喧嘩のとばっちりよ、お皿の破片が飛んできたの!」
「……皿?そんな訳ねぇだろ、もっと薄い刃物で撫でた感じだぜ?傷の深さが一定で鋭い」
「いくらこの国が物騒だからって晩餐の食卓に刃物なんか無いわよ、せいぜいシルバーくらいで………あ」
まさか。
嫌な汗が背中を伝う。
そういえば大袈裟に騒ぎ立てたのも、これしきの怪我で彼を呼んだのも彼女。
彼女がハンカチで抑えた後痛み出して、よくよく思い返すといつもいるはずの自室前の衛兵が居なかった。
「………さすがカーティス=ナイルの弟子…」
ガックリと項垂れて思わず呟くと、彼の目がギラリと光った。
「カーティス?……まさかあいつにやられたのか?」
「ち、違うって、違いますっっ!えっと、お皿じゃなくてグラスだったかも!」
「……本当だろうな?」
「本当だって!……睨むのやめてよ、怖いから!」
そう言うと不審な目をしながらも眉間に手を遣って視線を外した。
側にあった椅子を引き寄せて許可もなくどっかりと座る。
「……っは、たまに尊敬語やら謙譲語やら使うと疲れる」
「……疲れるなら来なければいいじゃない」
「仕事だ。たとえ手術中でも呼び出されりゃ来るっていう契約だからな。どうせ野暮用で来る予定だったし」
「手術中だったの!?」
「あぁ……そういえば死んだかもな」
「ちょ、のんきに座ってないで帰りなさいよ!」
「嘘だ」
「〜〜〜っっ…あんたって本当に性格悪いわね!?大体契約とか王室付き外科担当医って何なの、聞いてないわよ!?」
「そんなもん大っぴらにしてる訳ないだろが。王族を狙う暗殺者共に消される危険が増えるだけだ、姫さん頭悪いのか?診てやろうか?」
「ムカつく。帰れ」
やっぱり夢だ。
こんないい加減で人を馬鹿にした態度の医者が格好良く見えるなんて。
とびっきりの悪夢だ。
「言われなくても。………あぁ、どうでも良すぎて忘れるとこだった」
鞄を探ってポイポイとベッドに投げられる札束。
訳が分からずに、ぽかんと口を開けたままそれを見つめる。
「……は?え??」
「よし。じゃあな」
「いやいやいやおかしいから。何なの、これ」
「金だろ、見て分からねえか?目も悪いのか、診てやろうか?」
「しつっこいわね、それは分かってるわよ!何で人のベッドにお金放り出して帰るのか聞いてんの!」
「……野暮用だ」
「同情して恵んでくれるの?わーうれしーーぃ。ハイ、持って帰って」
「強情な女だな!誰とも分からない男とそんなに結婚したいのかよ!?」
「誰でもいいわよ、あんたには関係ない。明日引き合わされる婚約者があんただったら自害するわ」
見下ろされる視線に負けないように睨む。
心底嫌そうに、思い切り冷たく。
「そっか、よーく分かった。けどこの金にはメイズの貯金も入ってる。混ぜちまってどれだか分かんねえから捨てるなりなんなり、好きにしろ」
「使わないわよ!?」
踵を返した彼に大声を出す。
「絶っっ対に使わないからね!!!」
扉を出て行く後ろ姿にありったけの声で叫んだ。
何の反応もなくドアが閉まり、気配が遠くなる。
「…………っっ………な、によ…ばかばかばかシャークなんか死ね、今すぐ死んでしまえ〜〜〜……」
ぼろぼろと涙が落ちた。
悔しくて悲しくて、切ない。
明日になればもう王宮から自由に出る事も出来ず、結婚しなければならない。
五分の一の確率でシャークが婚約者だったとしても、彼は辞退するだろう。
もう会えない。
二度と、会えない。
「………………生憎俺はメイズと違って丈夫だからそう簡単に死にゃしねえ」
「!!!?」
扉にもたれて、不敵に笑った彼が体を起こした。
「はは、姫さん甘いな。どうやっても折れねえ相手に使う商人の必殺技知ってるか?……帰るフリすんだよ」
「な、なっっ……」
すたすたと近づいてきて、何にも無かったようにもう一度椅子に腰掛けた。
涙を拭く姿を見られるのが癪で、慌てて枕に顔を埋める。
「………なーに泣いてんだ?」
「泣いてないわよ!殺す殺す絶対に殺す!!」
「死ねの次は殺すかよ……ってか、普通になりたいんじゃなかったのか?」
「ウルサイ!!シャークなんかそこの窓から墜落してバラバラになって野犬に食べられちゃって家じゃなく土に還れ」
ぶつぶつと呪いの言葉を吐きながら顔を枕に押しつける。
いきなりべしっ、と頭をはたかれ、同時に枕を取り上げられた。
「何すんの!!」
反射的に顔を上げると、ガツンと下からの衝撃。
危うく舌を噛みそうになって顎を掴んだ大きな手を引き剥がそうともがく。
「………俺にはそんなに嫌われる理由が見当たらねぇんだけど。伝言しといたんだが、聞かなかったか?」
「……言い訳でしょ、聞いたわよ…っ…」
顎を掴まえられているせいで大きな声が出ない。
その代わり、憎々しく睨んでやる。
「あの人が身内だとしても、私の婚約者候補になる前には女もいたでしょ?どうしたの?……私の方がお金になるから捨てたの?」
「………は?女?……何言ってんのかさっっぱり分かんねぇー…分かるように順を追って話せ」
「とぼけないでよ、あんたぐらい金持ってたら女の一人や二人や三人や四人自然にすり寄ってくるでしょうよ…っ…」
「あぁ、ウザってぇくらい来るけど?」
「それでも婚約者候補になったのは私が王女であんたの利益になるからでしょ!世間知らずのプリンセスが馬鹿みたいに簡単に堕ちて面白かった?……っっ…」
自分で言ってて泣けてくる。
一度緊張が解けた後だから涙腺が緩んで涙が止まってくれない。
馬鹿に恥の上塗りだ。
こんな……泣いて縋る女みたいな真似、死んでもイヤなのに。
「……あのな…俺の何処に女に注ぎ込むような金と時間があるように見えるんだ?めんどくせぇ、そんなヒマあったら寝るわ……」
「……っっ…信用でき、ない!!」
手の力が少し緩んだ隙に全力で振り解く。
泣いているせいか呼吸がままならなくて肩で息をしていると、彼が腕を掴んで引き起こした。
「…………分かった。つまり、俺が金目当てだと言いたいんだな?」
「そうよ!心にも無いんだから想ってるような事言わないでね、ものすっっっごくわざとらしいから!!」
「あ〜〜、分かったから耳元で怒鳴るな。出掛けるぞ」
「は?どこに行くの!?まさか身代金目当てで誘拐……」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、最後の夜遊びだ。冗談言うヒマがあったらきりきり歩け」
「夜遊びィ?……私熱あるんじゃなかった?ちょっと!まだ承知した訳じゃ」
「見てぇんだろ?俺の本気。見せてやるから黙ってついてこい」
腕を掴まれたまま引きずられるようにして、きらびやかな遊技場に入る。
通り過ぎる客は街中同様一瞬不審な目で見ても、すぐに忘れ去ったようにゲームに戻った。
やがてど真ん中のカードテーブルに、両肩を押さえて無理やり座らされた。
「ここで一番強い奴呼んでくれ」
「は?」
にこやかだったディーラーの顔が曇った。
「大勝負がしてぇんだ。いいから一番強いヤツ」
「シャーク=ブランドン様とお見受けしますが……大勝負とは?」
「俺の全財産賭ける」
ニヤリと笑って発せられた言葉に、開いた口が塞がらない。
何を考えているんだ、この男は。
ここでこんな事言ったら……!!
「その賭け、乗ったぁぁ♪」
出たぁぁああ!!!
「おーう誰かと思ったらオマエか、楽しそうな話してんのは〜。なぁなぁ、相手オレでいい?一番強いヤツ探してんだろ?」
「お、ロベルト=クロムウェルが相手なら話が早くていい」
「なんだよ、ロベルトって呼べよシャーク♪言っとくけどオレは友達でもカードに関しちゃ手加減しねぇぜ〜」
「無用の気遣いだ。俺は全財産賭ける、おまえは?」
「ん〜…そうだな、こことマクレイヤー通りの三店舗。あとオマケにオレの貯金…40ってとこ?どう?」
「それでいい。あ〜っ…と、一つだけ条件付けさせてくれ。弟の病気が治るまでは俺を医者として雇えよ?」
「心配しなくても給料はずんで置いてやるぜ〜。あんた腕が良いって評判だからな」
ぽかんと見ている間に、話はトントン拍子に進んでいく。
賭けているものは現実感がないほど莫大。
もしロベルト=クロムウェルとシャークの間で話が付いていると仮定しても、こんなに大勢の前で全財産を賭けると言った後約束を違えるような事があれば、信用第一の商人なんかもう出来ない。
ロベルト=クロムウェルという男も、イカサマはしても八百長はしないはず。
「シャーク、シャークってば!!何なのこれ!?ロベルトとカードで勝負って、あんた破産する気!!?それとも実はカード強いとか…」
「うっわ!びっくりした……何だプリンセスじゃん、ごめんね気付かなくて。ほっぺた怪我したの?可哀想に〜」
「耳元で怒鳴るなって……聞こえてる。カードはガキの頃遊びで何度か…ルールくらいは知ってるから大丈夫だ」
「怒鳴りもするわ!!」
「オレは無視ですか、そうですか。 手 加 減 し ね え 」
ロベルトは帽子のつばを下げ、シャークはうるさそうに私側の耳に指を突っ込む。
大勝負に水を差す格好になり、私には野次馬の罵声が飛んだ。
「オイねーちゃん!!面白くなってきたんだから、黙って……ろ…」
言い終わらない内に、二本のナイフの切っ先が野次馬の喉に当たる。
『お前が黙れ』
ロベルトとシャークが見事にハモった。
そのナイフより、シャークの眼光の方が鋭くて怖い。
背筋にぞくぞくと悪寒が走った。
「ねぇ、一文無しになりたいの!?何でこんなこと…」
「金は無くなってもあんたが残る」
「そりゃ宝物庫とか王宮とか金目の物はあるけどっ…でも王は健在だし、私を手に入れても何にもならないでしょ!?」
「だから金目当てじゃないっつってんだろ、分かんねぇ女だな!!俺は破産するが、あんたの人生は俺のモンだ。心配するなよ、医者だけでも充分食っていけるしな」
髪に口付けてニヤリと笑う。
言葉だけ聞けば口説き文句みたいなのに悪寒が止まらない。
喉元に刃を突きつけられたさっきの野次馬の気持ちがよおく分かる。
本気だ。
「………待って、ちょっと………ストーーーップ!!」
台に駆け上がり配られようとしていたカードをディーラーからもぎ取った。
バラバラと美しい模様が散らばる。
「分かった……………信じる、信じればいいんでしょ!?あんたはお金目当てじゃなくて、他に女も居なくて、私はあんたの物!これで満足なの!!?」
別に感動した訳じゃない。
強いて言うなら断崖絶壁にぶら下がっていて危機一髪で助かった気分だ。
体が動くのが一瞬遅れていたら。
カードが配られてしまったら取り消しは効かない事を知っていて、本当に良かった。
散らばったカードの上にぼたぼたと涙が落ちる。
「…………上出来だ」
シャークはそう言って不敵に笑い、カードテーブルに仁王立ちの私に手を差し伸べた。
「…………何か勝負してねーのに負け負けな気分…くっそムカつくぜ」
「スマンな。文無しになる理由が無くなったんで勝負は預けとく」
「てめぇ、今度来てみろ身ぐるみ剥いでやっからな!」
「いいぜ?………ダーツでな」
「ダーツなんかするかぁあ!二度と来んな!!」
子供みたいに抱きかかえられて王宮に戻ると、やっぱり自室前には人っ子ひとりいない………らしい。
いたら今頃シャークは衛兵に捕らえられているはずだからだ。
捕り物どころか話し声さえ聞こえないまま、お気に入りのお香の匂いが鼻をくすぐる。
「なぁ………それ、いい加減やめねぇ?」
扉を閉めてから、彼が呆れたように言った。
「……卑怯者、嘘つき、成り上がり、強欲、自意識過剰、偉そう、失礼、ヤブ医者、アンポンタン…卑怯者、嘘つき、成り上がり………」
「それがついさっきプロポーズを受けた女の言い草かよ……」
「誰がプロポーズ受けたのよ!?あれはね、脅迫っていうのよ……っっ!!」
肩に伏せていた顔を上げた途端にベッドに放られる。
ぼよんぼよんと跳ねる体も、スカートが捲れるのを必死で押さえるのも本日二回目だ。
「怪我人は丁重に扱いなさいって………ば???」
間抜けな声が出てしまう。
彼は椅子に白衣を掛け、続いて帯と上着をバサっと放り投げる所。
悪趣味だと思っていた金の装飾品は、引き締まった浅黒い肌にとてもよく似合っていて思わずまじまじと見てしまった。
「………えっと〜…なにやってんの?」
「…………………」
こちらを見た目が怖い。
微笑んでいるのがなお怖い。
これでは本当に”肉食獣の前に放り出された人の図”だ。
まだ裸にはなってないがそれも風前の灯火。
ベッドに膝と手をついて獣がジリっと近付いた。
「あの、え?え?…ていうかまだ正式に婚約したわけじゃないし、ねぇ?」
あはは、と笑って誤魔化そうとしたが、彼は笑みを浮かべてにじり寄ってくるだけで返事もしてくれない。
後退りしそうな手に力を入れて耐える。
「……逃げねぇの?」
「私の部屋で、どうして逃げなきゃいけないのよ」
「よし、いい心構えだ。………んじゃ今からお仕置きな」
「は?何で!?」
「俺に攻撃、したよな?それに、さっきまで俺に何て言ってたのか覚えてるか?」
「…………う……」
当てるつもりもなかったし、事実当たらなかったなどと言っても無駄。
この国では武器を出した時点で殺されても文句は言えない。
彼のベルトからチャリチャリと音を立て、自分の髪飾りが元の位置に戻される。
ついでに、髪を唇に押し当ててじっと瞳を見つめてきて。
半裸の彼とこの体勢になって、今更のように顔が火照った。
「や、やっぱり逃げようかな」
「そうそうチャンスがあると思うか?……心配するな俺は注射が上手いから痛くない」
「うわ、オヤジくさっ……」
「何とでも言え」
腕を掴まれて顔が近付く。
「…………………」
「………………?」
「……………っっ…」
「…………シャーク…?」
彼の視線が至近距離で一点を見たまま動かない。
不審に思って額の髪を後ろに撫でた。
「………寿命が縮んだんだぜ?もう怪我だけはやめてくれ」
「あ……でもこれはチェ…不可抗力で」
頬を撫でる手が壊れ物に触るようで。
眉を寄せた顔が苦しそうで。
何だか悪い事をしたような気になってしまう。
「………ご…めんなさい……来てくれてありがと…」
「……それから?」
「……………だいすき」
ここ何日かで初めて、彼が笑ってくれたような気がした。
END.
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