きっかけは、ほんの些細なことだった。
ギルカタールの東端、王都から遠く離れた地方都市。
この街に一つしかないカジノの最奥にしつらえられた豪奢なベッドルームで、彼女はむくれて膝を抱えていた。
部屋に相応しく広いベッドの反対側、視線の先では、金髪の青年が気持ちよさそうに眠っている。
横になるでもなく、ふかふかと積み上げられたクッションにもたれかかるように目を閉じている青年。彼はほんの少し前まで、彼女の機嫌を取ろうとがんばっていたのだ。
とはいっても、たいした話ではない。ベッドの上で甘い会話をしていると、何かのはずみで彼が彼女を『プリンセス』と呼んだただ、それだけ。
呼ばれ慣れたそれが特別気に触ったわけでもなかったが、つい『名前で呼んでって言ったのに』と返したら、彼は慌てて謝ってきた。叱られた悪戯っ子のような表情が可愛かったので、怒ったふりをして顔を背けると、落ち着きなく言い繕うのがますます可愛い。
ところが、そうして少しの間そっぽを向いているうちに、彼はそのまま眠ってしまったのだ。
そこで初めて、彼女は本気でむっとした。
眠いのはわかる。昔は睡眠時間が二時間だったという彼だが、王都を出てからは親友との約束を守って早く眠るようになったから、もう習慣になってしまっているのだろう。
しかも、自分のわがままのせいで忙しない逃亡生活を余儀なくされていることを考えたら、こちらの方が謝らなければならないのかもしれない。
そうは思っても、話の途中で寝られるのは気分が良いものではなかった。
大体、これでは自分はつまらないことで怒った狭量な人間になってしまうではないか。今日のうちなら『うそうそ、ちょっとからかってみただけ』で済んだ話が、明日になれば二人して気まずくなる。
揺り起こそうかとも思ったが、だらしなく口を開けている無防備な寝顔を見せられては、それもできなかった。
「……だって、ロベルトが悪いんだから」
もう一度彼をちらりと見て、小さく呟く。
その声すら、起こさないように自然と気遣ってしまうのが悔しい。文句のひとつも言いたくなる。
「だって、いつもなら手を繋いで一緒に眠るのに。あんなところで一人で寝られたら、私まで眠れなく…………」
言いかけて、無理にこじつけたはずのそれが実は本音であることに気づき、一気に頬に血が上った。
頭の中が熱い本当に、彼に出逢ってからの自分はどうかしてしまった。
この乙女ちっくな思考が『普通』だと喜べばいいのか、それとも素直に気味悪がっていいのか、微妙なところだ。
「……ほんと、むかつく」
むうううう、と訳もなく唸り声を上げて、彼女はじっとロベルトを見つめた。
綺麗な顔をしている。スチュアートのように稀なる美貌というほどではないが、それでもいちおう美男子と言えるだろう。
普段は整っているだけのこの顔が、時には悪魔の如く残虐に、時には愚者の如く胡乱げになる。
くるくると変わるその顔全てがロベルトという男なのだということを知ってはいても、この子供のような寝顔だけは自分にしか見せないのだと思いたかった。
「いやいや、それもちょっと恥ずかしい考え方だな」
また顔が赤くなるのを防ぐように、ぷるぷると首を振る。
いかんいかん。こんな馬鹿なことばかり考えていては、朝になってしまう。
彼のことを想っていたらいつの間にか夜が明けてました、なんて、それこそサムイ。いや、眠い。
今すぐ叩き起こして謝ってしまえれば楽だけれど、それができないならこのまま眠るしかない。
気合いを入れるように拳を握って、ベッドを降り向かい側へ回る。
そこから、妙な体勢で固まっているロベルトの足を引く。こんな格好で朝まで寝たら、明日は確実に寝違えているだろう。
ぐいぐいと遠慮なく引っぱると、彼の体はだんだんベッドの上に横たわり、なんとか寝転んだ感じになった。足が変な風にもつれているのはご愛嬌だ。
「はい、おしまい。手間かけさせるんじゃないわよ。……しょうがないから、朝になったら謝るけど」
顔を見た途端、むかついてしまわなければいいのだけれど。
そう思いながらふと床に目をやると、ベッド脇のフロアに何かが落ちている。
あれは確か、ロベルトがよく内ポケットに入れている
「……………」
にま、と意味ありげに笑った顔は、父よりはむしろ母の方に似ていた。
◇ ◇ ◇
次の朝。
なぜかいやにスッキリしている彼女の目を覚ましたのは、どこからか聞こえてくる騒音だった。
「………?」
どんどん、という音が、少し離れた場所から立て続けに響いている。
意識が完全に浮上する前に、押し殺した声が被せるように割って入った。
「んだよ、うるっせぇ……静かにしねえか、彼女が寝てんだぞ!」
「お、オーナー!も、申し訳ありません……ですが!」
どうやら、扉の向こうとこっちで会話をしているらしい。
同じ部屋で眠るようになって、ロベルトは生半可な事では鍵を開けなくなったから、呼びに来る支配人やディーラーももう慣れたものだった。
「一大事です、地下金庫に賊が侵入しました!」
「はぁ!?」
「朝、一番人の少ない時間帯に……勿論、金庫内に侵入される前に捕らえましたが、警備員数名が重傷です。
早くから申し訳ありませんが、ご足労お願いします!」
「っち、情けねぇ……」
ガチャリ、とドアが開く音がして、外の音がクリアになる。
そのせいで、彼らが息を呑んだ音がベッドまで聞こえた。
「 あ。」
そこで、彼女はようやく思い出した。
昨夜、自分が何をしたかを。
「賊は捕らえてあんだな?何人だ?」
「……………」
「おい!?何呆けてんだよ!」
「…………あ、は、はい。さ、三人、です」
「ハ、どんな強盗団にやられたかと思えばたったそれだけか。警備員は全員解雇だ、治療費込みで退職金払ってやれ。
そいつらは俺が検分してやるよ。三人か……久々に楽しいことになりそうだなあ……」
くくくくく、と嗤った表情は、いつもならば狂気の笑みとして見る者を怯えさせただろう。
よりにもよって彼の経営するカジノに押し入ったことを、残り僅かな一生で後悔することになる、と。
そう、いつもならば。
「や、やば……」
小さく呟き、彼女は急いでベッドを降りた。
入り口から見えない方のクローゼットで、手早く服を着替える。
丹念に身づくろいしている暇はないけれど、寛いだ姿で他人の前に出て行けば、それこそロベルトの機嫌を悪くしてしまうから。
そうしてなんとか大丈夫な格好になったときには、彼はすでに外に出ていた。
「待って!ロベルト!」
叫びながら、そばにあった水差しで布を濡らし、入り口へ走り寄る。
支配人たちと地下金庫へ行こうとしていたロベルトは、それに気づいてわざわざ部屋の中まで戻ってきた。
「あ、起こしちゃいました?すみません。何かあったみたいなんで、俺ちょっと出てきますね」
「うん。……え、えーと」
「え?なんですか、おはようのキスですか?やっぱり挨拶は人間の基本ですよねえ」
「う、うん」
にまにまと相好を崩している彼の顔を正面から見て、衝動を抑えるのに苦労した。
ある意味、今の表情には似合っていなくもない。けれど、先程の悪魔のような笑みには強烈に違和感だったはずだ。
この、鼻と頬いっぱいに大胆に描かれた、ネズミのような髭アートは。
決して悪気があったわけではない。
落ちていたペンを見て、ほんの悪戯心を起こしただけ。朝、顔を見ると反射的にむかつくかもしれないと思ったから、見た瞬間笑ってしまえばいいのだと。
当然それは自分だけが楽しむもので、他の人間に見せるつもりなどなかった。ましてやこんなシリアスなシーンで、カジノの雇い人に見られてしまうなんて。
「んー、おはようございます。いい朝っすね〜」
「お、おはよ。……ロベルト、ちょっとじっとしてて」
口付けてくる彼に応えるのもそこそこに、彼女は持っていた布をべたりとその顔に押し付けた。
多分、水拭きで落ちるはずだ。というか落ちてくれ。頼む。
痛そうに眉根が寄るのを気にせずにがっしがっしと擦ると、落書きはある程度薄くなる。これなら、見られても気づかれずに済むだろう。
ほ、と安堵の息をつくと、赤くなってしまった頬を撫でながら、ロベルトはきょとんと首を傾げた。
「……なんか付いてました?」
「ん、うん、ちょっとね。……ええと、よだれの跡が」
「嘘!?うっわ、恥ずっっ!それであいつら、変な顔して見てたんすね!?」
「寝ていたところを突然起こされたんだから、仕方ないわよ。はい、きれいになった。いってらっしゃい」
「う……あ、ありがとうゴザイマス。……へへ」
なんかこれって新婚さんみたいっすね、とほんのり頬を染めた彼の頭をよしよしと撫でながら、彼女はドアの所で狼狽えている支配人たちにこっそり視線を送った。
下手なことを喋ると容赦しないわよ、という爽やかな笑顔を添えて。
END.
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