夕方から降り出した雪の結晶が大きくなり、音もなく降り積もる。
忙しくクリスマスソングと交通情報を繰り返すテレビを消して、彼女は一人溜息を吐いた。
この夜皆が待ち望む天からの贈り物も、今の彼女には恨めしく思えて仕方がない。
寒々とした部屋で、一人膝を抱いて街並からの楽しげな音楽が聞こえないように俯く。
灯りもエアコンも点ける気にならない。
だって、そんなものあそこには無いのだから。
ろうそくを灯して、炭を燃やして、それでも寒ければ彼と寄り添えばいい。
夢のようなあの日々から、突然引き裂かれたあの日から。
彼女はずっとそれだけを願っていた。
どの位時間が経ったのか、ふと静けさに違和感を覚えた。
窓を開けてみると、そこには暗闇。
見慣れた人工的な光は何一つ無く、空には冴え冴えと星が瞬いている。
雪の重みで停電が起きたのだろう、静かな闇。
慣れない頃は恐かった、吸い込まれそうな夜空。
ずっと望んできたその光景の中にも、彼はいない。
もう枯れたと思っていた、涙が溢れた。
「もうおやめ下さい、泰明様!本当に死んでしまいます!」
袖にすがる弟弟子を見遣って、彼は冷たく言い放った。
「死ぬ?私に死は無い。力が無くなれば消えるだけだ」
「貴方は京に取って必要な御方です。まだまだ気の流れが不安定な地もあり、帝も貴方を頼りにしていらっしゃいます!どうか……どうか龍神の神子様の事はもうお諦め下さい!」
皆が口に出すのを憚るその名を言い難そうに言って、弟弟子が泣きそうな顔を見せた。
神子が目の前で消えたあの日から、ますます人が近寄らなくなった自分の庵に、この弟弟子だけが何度も何度も足を運び、細々と世話を焼く。
口数が少なく大人しく、決して自分を表に出さないが、大きな力を秘めている少年。
もう少し自信を持てば、強い陰陽師になれる素質がある。
「私には唯一神子だけが必要不可欠な全てであって、その他は、帝も京の民も等しく意味のない物だ。……お前には世話になったが、私の事は捨て置いてくれ。」
そう言った泰明の、初めて見る穏やかな微笑み。
今にも霧消してしまいそうなその儚さに、弟弟子が意を決した様に前に立ちはだかった。
「どうしても…どうしても私の願いが聞き入れて貰えぬなら、この身を賭してでもお止め致します!貴方の存在は私などとは比べようもなく尊い事をご自覚下さい!」
声を振り絞りながら印を結ぶ彼の手が、術の最後で動きを止めた。
人差し指を軽く額に当てられて、声を出すことも出来なくなった弟弟子に泰明が陰陽師の瞳で言い放つ。
「遅い。術を掛けるときは悟られぬ様にしろ。陰陽師相手なら頭の中で印を結べ。……分かったな?」
そのまま真横を過ぎ去っていく泰明にとって、弟弟子の瞳から溢れ出した涙も足を止めるほど重要な事では無かった。
外に出ると星の光に雪が白く足元を照らした。
凍った雪を踏みしめて、誘われるように伏見稲荷に足を向ける。
いつものように陣を描き、供物を捧げ。
彼女が消えたあの日から、毎日繰り返してきた術は何の手応えもなく闇に吸い込まれていくだけ。
けれど、諦めるなど考えた事は無い。
彼女の傍にしか自分の存在は有り得なく、これが自分の生きる為なのだ。
ふと、ほのかな雪明かりに自分の手が透けて見えた。
さほど気にも止めず、準備を進める。
何ヶ月も毎夜毎夜この術に全力を注いだのだから、自分が消える日がそう遠くない事は分かっていた。
今夜が最後だろう、そう思いながら天を仰ぐ。
自分の力が足りないのか、神子が必要としてないから呼び合わないのか。
澄み切った夜空に浮かぶ星は、時空を越えて彼女の世界でも光っているだろうか?
いつもとは少し違う願いを言霊に託し、最後の祈りを捧げる。
愛しい彼女が幸せになるように。
すっと意識が遠のく中、ただそれだけを祈った。
◇ ◇ ◇
『…………!………っっ!!』
ふわりと懐かしい香が匂った。
遠くから響くような声には憶えがある。
意識は定まらず、身体に重さは無い。
けれど、ずっと求めていた忘れられない存在を確認したくて、瞳を開けた。
「………神…子、か……?」
真っ白な視界がぼやけて次第に輪郭を形作っていく。
泣き濡れた瞳から更に雫をあふれさせて、自分に縋り付く小さな手。
その手から暖かさが流れ込んできて、急に身体が重くなった。
固い床に降りた感触が背中にあり、叫ぶような神子の声が耳に届く。
「泰明さんっ!!泰明さん泰明さん泰明さん!!!」
「………神子…やっと逢えた。」
「……っっ!や…明…さんっ…う…ぇっ……」
力が入らない手を無理に動かして小さな手に重ねると、彼女が渾身の力を込めて握り返した。
そのせいだろうか、身体の自由が徐々に戻ってくる。
「…そんなに、泣くな…」
「…も……逢えないかと思った…!!どうしてもっと早く来てくれなかったんですか…っっ!」
「…悪かった。だからもう、泣くな。」
何とか上体を起こすと、そこには見慣れない物がたくさんある。
どうやら自分が神子の世界に飛んでしまったらしい。
師匠がその様な事が出来ると言ってはいたけれど、あの師匠の言うことだから本当だとは思わなかった。
「いきなり目の前に浮いてて、泰明さん透けてて……びっくりしたんだからっっ!!…またすぐ…消えちゃうかと…思ったんだからっ……」
泣きやまない肩を胸に抱き、存在を確かめるように力を込める。
生まれて初めて、身体が冷たく、彼女が暖かい事が実感できる。
気の流れでしか感覚のなかった自分は、人がこんなに熱をもっているなんて知らなかった。
そう彼女に告げると、やっと少しだけ笑ってくれて。
繋いだ手を離さないように一生懸命体を伸ばして私に毛布を掛け、子猫のように懐に潜り込んできた。
「……龍神が手助けしたのだろうか、私には殆ど力が残っていなかったというのに…ここに来れた。」
「…今日はクリスマスですから。」
「くりすます?」
問い返すと、胸の中で神子が幸せそうにくすくすと笑った。
「…えぇ、神様が生まれた日で、奇跡が起こる聖なる夜なんです…」
そう言うと泣き疲れたのか、彼女はすぅっと眠りに落ちていく。
しっかりと自分の手を握りしめ、子供の様に眠る彼女の静かな寝息が人になった自分にも誘いかけてくる。
柔らかな頬に口付け、開けていられなくなった瞼を閉じた。
これからもずっと、彼女という奇跡が自分と共に在る事を祈りながら。
FIN. |