ぱたぱた、と遠くから軽い足音が響いてくる。
一瞬、目の前の膳を片そうかという考えが頭を過ぎったが、そのような誤魔化しをする必要はないと思い直し、盃をそこに置いた。
そうする間にも、足音は部屋の前で止まり、手が真新しい障子にかかる。
シルエットでそれを確認した彼が背を向けると、少しだけ開かれた障子がまた閉じられる微かな音がして、継いで小さな深呼吸が聞こえた。
そのまま沈黙する『それ』に、大げさにため息をつく。
「……そこに居座られては、迷惑なのだが」
意識して大きな声を出すと、部屋の外の影が慌てたように後じさった。
しばらく後、ようやく意を決したように、障子戸が開かれて。
おずおずと首を出した彼女に、泰衡は目もくれずに言い放った。
「こんな時分から、何用ですかな」
「あ…あの……泰衡さん」
「今日はあの豪華な餌は必要ありません、と申し上げたはずですが」
「い、いえ、そういうわけじゃなくって」
「ならばどのような用向きで?よもや新年の挨拶、などと下らぬことを仰るのでもありますまい」
「……………」
黙り込んでしまった背後に、つと唇の端を歪める。
「そのように浮かれていられる貴女とは違い、私は暇ではないのです。お引き取り願えますかな」
「で、でもっ…!」
入口に立ったままの彼女が膳に視線をやるのが分かって、泰衡は馬鹿にするように目を細めた。
酒など飲んでいるのに忙しいなどとはおかしい、と言う気なのだろう。どうせ小娘の考えることなどその程度のものだ。
彼は彼女の台詞の先を遮るように立ち上がった。
「生憎と、このような家の総領にはそれなりの儀礼がありまして、年始の酒を交わすのもその内なのですよ。
貴女のような浮世離れしたお方には縁のないものでしょうが、卑賤の身なれば避けて通るわけにもいきませんので」
吐き捨てるように言いながら、部屋の隅に掛けていた外套を羽織り振り向くと、居心地悪そうに下を向いていた彼女がふと顔を上げた。
その瞳には、困ったような色が浮かんでいて。けれど、頬はうっすらと染まっている。
いつもと違う奇妙な表情に言及する前に、彼女がまた俯いて小さく呟いた。
「あの…、あの、泰衡さん。その、お身内の年始の奉納に行くんでしょう?」
「……何故、それを?」
なんとなく、嫌な予感がした。
「あの、秀衡さんから今朝、お手紙をいただいて。……私も来ないかって……」
「…………。」
「それで、あの、泰衡さんもお誘いして一緒に行こうかなって……思ったんです、けど」
「…………………。」
「あの!でも、泰衡さんが嫌なら行きませんから!私なんかが行っても場違いだし、泰衡さんもご迷惑だろうしっ」
眉間に指を当てて黙り込んだ彼に、彼女は慌てて手を振った。
えっと、その、と尚も意味のない言葉を漏らしている姿を、しばらく苦々しい瞳で見て。
嫌そうに眉を寄せたまま、泰衡はばさりと外套を翻して彼女の横を通り過ぎた。
ごく内々だけの奉納の儀に、何故父が彼女を呼んだか、分からないわけではない。
下らない誤解をしたままの融通の利かない父が、その席上で何を言い出すのかも、予想できないわけがない。
けれど。
「父上の客人に文句を言うつもりはない。私には関係のないことだ」
至極冷たそうな声音で突き放したように言い、泰衡は足早に渡殿を歩き始めた。
それに走って追いつきながら、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、泰衡さん!」
「礼を言われる覚えもない」
「分かってます、あの、それと……明けましておめでとうございます」
ふ、と泰衡の足が止まる。いつもの瞳が彼女を見る。
皮肉を言われる前に、と急いで彼女は頭を下げた。
「今年もよろしくお願いしますっ」
END. |