「しっぽがほしい」
突然呟かれた台詞に、知盛は訝しげに瞳を細めた。
ほのかに空を覆い始めた薄闇で、その表情は翳って見える。予定より到着が遅れてしまったのに、知盛が少しも急ごうとしないものだから、将臣は街に入ったところで一足先に宿を取りに行った。
『悪ぃな、こいつを見張って宿まで連れてきてくれ。またどっかふらふらしねえように』
その言葉を守るように、神子は知盛の衣の袖をしっかりと掴んで先に歩いている。
気まぐれに足を止める度に引っ張られながら、知盛が気怠そうな返事を返した。
「……なんと言った?」
「しっぽがほしい、って言ったの」
「おまえが言い出すのは、いつも妙なことばかりだな。……まあ、おまえの尻には似合うかもしれん」
「違う!」
ねっとりとした視線が腰の辺りを彷徨うのが前を向いていても分かったので、神子は顔をしかめて振り向いた。
「私じゃないよ、知盛にだよ!」
「……何のために」
「だって知盛、何が楽しいのか分かんないもん」
ますます不審そうな表情になった彼に、ふてくされたような声が突きつけられた。
「おいしいものを食べても、きれいな景色を見ても、知盛はいつもだるそうな顔をしてるじゃない。
かと思えば、道端の石塚とか樹の上の花とか、意外なものに興味を示すし」
「意外なもの、…ね」
「何が気になるか分からないと、注意のしようがないよ。気づけばずーっと後ろで座り込んでる、なんてもう嫌だからね」
昼間の出来事を思い出して、神子ははあ、とため息をついた。
熊野は元来、人柄が荒い土地だ。水軍の本拠地なのだからそれは当たり前だし、彼がそのへんの小悪党にどうにかされるとは思わないけれど、今度の行幸で朝廷の者も多く熊野に入っている。
宮中に広く顔を知られている彼が独りでいれば、最悪、闇討ちに遭ってもおかしくないのだ。
知盛の身は勿論だが、諍いが起こった場合の関係悪化をもっとも懸念している将臣は、思いつきでいなくなる彼を捕まえておくのに苦労していた。
「……気に掛けていただくのは光栄だが」
引かれている袖を煩わしそうに払って、知盛は額にかかった前髪を掻き上げた。
「楽しくないから楽しくない顔をしている。分からんことはないだろう」
「でも、気になるから立ち止まって見るんでしょ。面白いと思ってるんじゃないの?」
「特に面白いわけではないさ……」
何かに風情を感じた時、それを頭の中で詠むことはもはや習慣となって久しい。
必要もなく、好きなわけでもないそれが自然と浮かんでくるというのは、世界の違う神子や将臣には分からないことだろう。
そう考えながら足を止めた彼の手を無理に引いて、彼女はもう一度歩き出した。
「じゃあ、知盛はなんにも楽しくないの?ごはんも、おやつも?お風呂とかも?」
「……それはおまえだろう」
少し呆れたように情緒とは無縁の彼女を見やり、クッと笑ってその耳に唇を寄せる。
「そうだな……神子殿と閨にいるときは、それなりに楽しいが?」
「馬鹿!」
途端に、彼女が手に持っていた棒きれが頭を狙って飛んできた。
それを易々と避けてから、ふと、知盛はさも何かを思い出したとばかりに顎を撫でてみせた。
「そういえば」
「えっ?」
「菓子といえば、先程通った道行きの途中で、行商人が珍しいものを売っていたな……。
遠く海の向こうの外つ国のもので、なんでもこの上なく美味な逸品とか」
「知盛、私と将臣くんが必死で探してるときに買い食いしてたの!?」
「別に、そのためにはぐれた訳じゃない。……それより、おまえは食ってみたいんじゃないのか?」
「え」
にやにやと意味ありげに笑いながら、懐から和紙の包みを覗かせた彼に、神子はうっと言葉に詰まった。
そうまで言われたら、食べてみたくならないはずがない。熊野は外国とも取引しているとヒノエが言っていたが、どこの国のものなのだろうか。もしかしたら、元の世界でなじみのある菓子かもしれない。
期待を読んだように、 知盛がそれを取り出して恭しく差し出した。
「神子殿が欲しがるだろうと思って、わざわざ買っておいたんだ。ご賞味あれ」
「……………。」
けれど今までの経験から、彼がそんな風に言う時は飛びついてはいけない、ということは明白で。
代わりにとんでもないことを要求されるに違いない、と自分に言い聞かせて、神子はぷいとそっぽを向いた。
「べ、別に!宿についたらすぐごはん食べるし、そんなのどうでもいいもん!」
あらぬ方向を見つめる彼女の手が、一生懸命我慢するようにきゅっと握られるのを見て、知盛はこの上なく楽しそうな笑いを漏らした。
「神子殿。俺には尾が見えているぞ」
END. |