息ができない、というのは、まさにこういうことをいうのだと思った。
秋の色差す京の都。
朧な薄紅の春とはまるで逆の、鮮明な紅葉が燃ゆる都の一角で、私はひとり呆然と立ちつくしていた。
その日、朝起きてみると彼はいなかった。
薬の材料を探したり情報を仕入れたり、多忙な彼が外出することは珍しくなかったけれど、私がまだ起きていないほど早くから出かけたというのが少し気になって。
朝餉をすませた後、することもなかった私は、何気なく外に出てみた。
あまり遠くへ行くと後で怒られそうだったので、足は自然と六波羅に向かう。
ここで不穏な噂を聞いたのは、つい先日のこと。弁慶さんが何か悪いことをやっている、というその噂は思ったよりも広まっているようで、帰り道で彼を盗み見ている人は何人もいた。
源氏の大将の懐刀として、この京では弁慶さんの顔はかなり知れていたから、一人で外出すれば面倒なことに巻き込まれるかもしれない。
弁慶さんにそんな手落ちがあるわけないとも思ったけれど、どうしても心配だったから。
雑然とにぎやかな六波羅に着くと、私は彼を探しながら町を見て回った。
以前は平家の拠点だったこともあり、九郎さんなんかはあまり足を踏み入れたがらないけれど、私はここが好きだ。ヒノエくんが言っていたこともよく分かる。
威勢の良い物売りのおばさんや、大道芸のおじさんの声を聞いていると、京が怨霊に襲われるということも忘れそうになる。
そうしてしばらくうろうろした挙げ句、ふと気づくと、私はすっかり裏通りの方へ入ってしまっていた。
まずい、とすぐに思った。
道行く人の様相は、表とは明らかに違っていて。
ヒノエくんが再三注意していたのはここのことだ、と直感して、私は急いで戻ろうとした。
そのとき。
道向こうの長屋の陰に隠れるようにして、見覚えのある色合いが私の目をかすめた。
梵字の描かれた黒衣。かすかに見える萌葱と、色素の薄い髪。
「弁慶さ……」
怖さも忘れて、思わず駆け寄ろうとした、私の目の前で。
彼は黒衣の被りを後ろに除け、そばにいた女の人の頬に指を添わせた。
ひたり、と時間が止まったかのように、足が竦む。
まだそこまでは距離があるのに、琥珀の瞳が柔らかく笑んでいるのがはっきり見える。女の人が彼の胸元を掴んでいるのも、彼のもう片方の手が彼女の腰を抱いているのも。
くすくすと妖艶に笑う彼女が何か言うと、彼はそれに応えるように、彼女の耳元に唇を寄せた。
ふわり、と彼の髪が彼女の頬を撫でたのを見た途端、私は弾かれたように振り向き、一目散に駆け出していた。
何人もの人に次々とぶつかり、非難や罵声を浴びる。こんな大騒ぎをしては彼に気づかれない方がおかしいけれど、その時はもう夢中で、考えている余裕はなかった。
どこをどう通るのかも考えず、私は手当たり次第に道を曲がりながら、京邸へと走って帰った。
◇ ◇ ◇
かたかたん、と、部屋の外で小さな物音が聞こえる。
私はびくりと身を震わせて、近くにあった几帳の陰に隠れた。
世話をしてくれる邸の人には話してあるから、誰も近づいては来ないはず。そう思うのに、私は心のどこかでそれが誰なのかを知っていて。
やがて、期待か不安か、そのどちらかで考えた通りの声が聞こえた。
「……あんな場所にひとりで出向くとは、感心できませんね」
応えずただ小さく縮こまっている私のすぐ傍まで来て、彼はよどみなくそこへ座した。
「ヒノエが言っていたでしょう?六波羅の裏町は特に危険だと。どうして誰も伴わずにあんな所に行ったんですか?」
「……………」
「京で敵方が潜伏するとしたら、あそこしかない。ひとつ間違えれば大変なことになっていたかもしれないんですよ」
「……………」
「いくら僕を心配して探してくれたとはいっても、あれはやりすぎです」
「………!」
その言葉に驚いて目をやると、彼は優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「醜態を見せてしまいましたね。でも、あの女性には噂のことを聞いていたんですよ。法住寺に縁のある方でしたので」
「……ええ、分かってます」
囁くように答えて、私はまた元のようにうずくまった。
分かっている。彼の行動にはいつも、ちゃんとした理由があること。
なんとなく、とか、気まぐれで、とか、そういう曖昧な理由だったことは一度もない。
それどころか、好きとか嫌いとか感情で動いたこともないのではないだろうか。
だから、彼があの人を好きなんだと、そう思って苦しかったのではない。
ただ、彼の傍にいるのが自分ではないことが苦しかった。
自分ではない女性に触れている姿、親しげに笑いかけて頬寄せる情景。それ自体が私の息を止めてしまった。
なにより、彼の傍にいるのはいつも自分だけだと思っていた、それに気づいたことが一番苦しかったのだ。
「分かってます。弁慶さんは、そうしなきゃならなかったんですよね」
必要だったから、そうした。
ただ、それだけ。
そして、その必要なことを感情で非難しているのは……私の方。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけなんです。あの、私、庭にでも出て頭を冷やしてきますね」
笑わなきゃ、どんなに見透かされていても、形だけでも笑わなきゃ。
そう自分に言い聞かせて、私は無理矢理ほほえんで立ち上がった。
髪を直すふりをして表情を隠しながら、すばやく彼の横を通り過ぎようとする。と、いきなり片腕がぐいと引かれた。
「わ、!?」
危うくつんのめりそうになる体を、なんとか支える。
振り向くと、きちんと前を向いて正座したままの彼が、強い力で私の手を掴んでいた。
「……あ…あの?弁慶、さん?」
「……………。」
私が戸惑って呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを見上げほんの一瞬、今まで見たことのない表情をした。
とても不愉快そうな、憤りを抑えきれない顔をしたのだ。
「……ひとつ、お教えしましょうか」
そう呟いた時には、彼はもういつもの微笑をたたえていて。
私の手を捉えたまま、小さく首を傾げた。
「さん。僕はあなたを、僕の目的のために役立つ人材だと思っています」
ぴくり、と掴まれた手が震える。
「源氏の旗頭としての価値。怨霊を封印する能力。もちろんあなた自身の戦う力や人を惹きつける力も。
我が軍に、僕ほどあなたを評価している人間はいないでしょう」
「…………ありがとう、ございます」
口をついた礼が掠れて、他人の声のように聞こえた。
自分が笑顔を浮かべているのか、それとも泣いているのかも、もう分からない。
振り切ってでも外に出ようと、私が腕に力を込めたとき、掴まれた手にふわりと指が絡まるのを感じた。
「でも……僕が君に触れるのは、君が大事だからではない」
「……え、っ?」
「君を大切に思うからではない。君に好かれようとしているのでもない。
僕はただ、君に触れていたいだけなんです」
呆然として、私は彼を見返した。
何の意味も理由もなく、ただ、触れていたいだけ。そんなことを、この人がするだろうか?
とてもそうは思えない。それはどう考えても彼に似合う行為ではなかった。むしろ、それも策略だと考えた方が、よほど相応しいと思った。
源氏の軍師として、源氏の神子の心を乱すわけにはいかないと、彼らしく利害を計算したのだろう。
そう、思ったのに。
気がついた時には、私は彼の指を握り返しながら、柔らかく微笑んでいた。
もしこれが彼の策でも、構わない。自惚れていたって、小娘は扱いやすいと蔑まれたって、構うもんか。
「……じゃあ。もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」
私も、彼の言葉と同じように想っているから。
そのことに、今、気づいたから。
極上の笑みが頬に広がるのを感じて、私は彼の真似をするように、首を傾げた。
「わたしのご機嫌をとりたいなら、今日はもう外出しないで、ずっと傍にいてくれますよね?」
今日の夕方、六条堀川で大切な軍議があるのを知っていて言った言葉に、彼は満足そうにくすりと笑った。
「ええ、もちろんです。僕は君のそういうところが気に入っているんですよ」
END. |