好き、とその口が動くのを、何度も見た。
それは食べ物だったり、花だったり、下働きの女の小袖の色だったり……その人が平泉へ来てからのごく短い間に、よくもそれほど連呼できるものだと呆れるほど、その言葉は聞くことができた。
馬鹿のひとつ覚えとは、まさにこういうことを言うのだろう。何もかもを好きか嫌いかで選び取れる身分の方は、口憚るということを知らないらしい。
それが泰衡が抱いた、一番最初の神子の印象だった。
「金!くーがーねー。どこにいるのー?」
各地から寄せられた情報を忙しく整理していた彼のところに、突然、間延びした声が届いた。
思わず眉根に深い皺が寄る。来たるべき戦いのため、今のうちに方々へ手を回しておかねばならないというのに、当事者の姫君は今日も呑気に出歩いている。
どうせ役立つことなど無いのだから、うろつくのは構わない。だが自分の邪魔をされては迷惑だ。
そう心の中で結論づけて、彼は文机から立ち上がった。
濡れ縁から庭を見渡すと、隠れているつもりなのだろうか、茂みの間から間違えようのない明るい髪色が垣間見えた。
同時に、囁くようなひそひそ声も。
「あれー?なんで、金?」
「……………」
「どしたの?おなかすいてないの?譲くんに頼んで作ってもらったから、絶対おいしいよ?」
「……………」
どうやら、金に餌を与えようとしているらしい。
しばらく黙って様子を見ていた彼は、小さく舌打ちをして、濡れ縁から庭に降りた。
「じゃあ、これは?あのねえ、すじ肉を煮て柔らかくしてあるのと、骨を砕いたのを混ぜてるの。ぜったい好きだと思うんだー」
また、あの言葉。
一瞬踵を返そうかという考えが頭を過ったが、構わずに歩を進め、すぐ背後の梅の木に片肘をつく。
少女の言葉は、すでに懇願に近くなっていた。
「金ー、ねえ、なんで食べないの?もしかして、金ってこういうの食べない?きらい?」
「……何をしておいでかな、神子殿」
「ひゃああっ!?」
犬に目線を近づけて話していた彼女は、突然かけられた言葉に文字通り飛び上がった。
急いで立ち上がり、膝頭に付いた草と土を落とす。
「人の屋敷でこそこそと、一体何をしておられるのかな」
「えっと……あの……その」
「その重箱は?なかなか立派な装いだが、もしや、私に差し入れでも?」
「えっ」
ぎくり、と彼女の体が強張って、持っていた重箱の蓋を慌てて閉める。
泰衡は薄笑いを浮かべて、恭しげに一礼をしてみせた。
「これはこれは、お心遣い痛み入ります。連日戦の準備に暇無い我が身なれば、なかなか気の利いた御顧慮ですな」
「あ……あ、あ、あのっ……これは……」
「このような卑賤の身を案じてくださるとは、まことに光栄の極み。有り難く戴きましょう」
「あっ!」
何も弁解できないままに重箱を取り上げられ、少女は泣きそうな顔で彼を見上げた。
蓋を開けた泰衡の眉間に、半ば故意の皺が刻まれる。彼が口を開く前に、少女は体を二つ折りにして頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!その、それは、金にあげようと思って……」
「……なるほど。神聖なる神子殿におかれては、私などは犬にも劣る存在という訳ですか」
「そ、そんなことありません!」
ばっ、と勢いよく頭を上げ、彼女は頬を染めながら首を横に振った。
「そんなことないです!泰衡さんが食べてくださるなら私、毎日でもお弁当作ってきます!
これはそうじゃなくて、その、私も元の世界で金に似た犬を飼ってたから……懐かしくなっただけなんです!」
「……あなたが、犬を?」
冷たい視線が重箱から逸れたのを幸いと、大きく頷いて金の頭を撫でる。
「はい、毛色も大きさもほんとによく似てて……うちのは茶々って名前なんですけど」
「……ほう」
「時々、譲くんがこうやって特製ごはんを作ってくれて。茶々はそれが大好きだから、譲くんが来るたびに飛びついてごはんをねだって」
「……………」
「だから、金も好きかと思ったんですけど……食べてくれないみたいですね」
えへ、と照れたように額を掻く彼女の表情に、少しだけ寂しさが垣間見えて。
彼はフンと鼻を鳴らして、持っていた重箱を草の上に置いた。
「……金」
きちんと足を揃えて見上げる犬に、視線を落とす。
彼がごくわずかに頷いて許可を与えると、金は座ったまま、お行儀良くそれを食べ始めた。
「あっ!」
はぐはぐと小気味よい音を立てながら餌を頬張る姿。それを見つめる瞳が見開かれ、面食らった間抜け顔が自分の方を向く。
泰衡はもう一度、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「こいつは、私の許しがなければ餌を食べない」
「えっ、そうなんですか!?すごい金、そんなこと分かるの!?」
「誰にでも懐くようでは番犬にもならないだろう。他に役にも立たない駄犬だ、せめてそのくらい果たせなくては価値など無い」
「すごい、すごい金!えらいね、賢いね〜」
「……神子殿の愛犬は、番犬向きではないようですな」
唇の端をあげて皮肉った彼の言葉に、彼女は再びしゃがみ込みながら頷いた。
「そうなんです、もう誰にでもなつく犬で。初めて会った人からでも餌付けされるくらいだったんですよ」
「犬は飼い主に似ると言うからな」
「え?なにか言いました?」
「……いや」
「でも、それで良かったと思います。だって、もし茶々が私からしかごはんを食べなかったら、今頃」
言葉を途切れさせた彼女の表情は、背後に立っている彼からは見えない。
肩がわずかに震えている、と思ったのは、気のせいだったろうか?
金の頭を撫でかけて止めた指が、所在なげに彷徨ったのは?
「……………。」
彼女が、自分の知らない『元の世界』とやらに思いを馳せているのがなんとなく不快に思えて、泰衡は再び渋面を作った。
「金」
一言呼んだ途端に、彼の忠犬が顔を上げる。
その目前から無造作に取り上げた重箱を、泰衡は面白くもなさそうに神子の手に投げ渡した。
おろおろと戸惑う彼女に、無言で下に置くよう指差す。
「え?え?あっ!」
意味も分からないまま従うと、金はやはりお行儀良くそれを待って、再び口を付けた。
ぱたぱたと尻尾を振り、何事もなかったかのように平然と食べ続ける金を、感動して眺めて。
礼を言おうと目を上げたときにはもう、彼は屋敷の方へ引き返し始めていた。
「神子殿がそうまで無聊を託たれておられるならば、手間がかかるばかりの駄犬の世話でもされるが良い。
そのような半下仕事が好き、なのだろう?」
そんな嘲るような捨て台詞を残して。
その日を境に、金の餌入りの重箱と、それとまったく同じ重箱に入ったお手製の弁当を手にした彼女が、柳ノ御所に足繁く通うようになった。
彼がどのような顔でそれを迎えたかは、誰の想像にも難くないことだった。
END. |