かたん、と高く通る音がした。
それは注意を喚起されるほど大きな音ではなかったが、九郎は没頭していた思索からふと呼び覚まされ、顔を上げた。
兄の名代として、処理しなければならない書状はいくらでもある。剣にばかり執心するわけにはいかない、と自らに課した仕事だったが、それにしてももう長い時間が過ぎたようだ。
休憩するのに良いきっかけだと思い、彼はきちんと文箱に書状を片づけて部屋を出た。
少し歩くと、庭の中ほどにある池のところで、神子が庭石に座り込んで一生懸命なにかしているのが見えた。
稽古の後なのだろう、隣の石に彼女の剣が置かれていて、その下に鞘が落ちている。
先程の音は、それが跳ねた音だったのかもしれない。
(まったく、武具の手入れは基本中の基本だというのに)
心中で呟きながら縁側を降りて近づき、落ちている鞘を拾い上げる。
そのまま彼女の前に立ち、それで頭をコツンと叩いて初めて、神子は驚いたように顔を上げた。
「あ…、九郎さん」
何故か妙に狼狽えている彼女に、九郎は厳しい顔をした。
「こら、。鞘を地面に落として気づかないとは何事だ」
「え?あっ!」
「音が部屋まで聞こえたぞ。武具を疎かにするとは、武人の風上にも置けん」
「ご、ごめんなさい!ちょっと集中してて……」
彼女が本当に申し訳なさそうに頭を下げたので、彼は表情を緩めて笑い、彼女の手元を覗き込んだ。
「何をしていたんだ?」
見ると、二つの手桶に水が張ってあり、片方には茎がついたままの花、片方には花びらだけが入れてある。一体何をしているのか、彼には全く想像がつかない。
その顔色を読んで、神子は慌てて説明した。
「朔が持ってきてくれたんです。縁家でお花の剪定があったらしくて、もったいないからお風呂に入れようって」
「花を風呂に入れる?」
目を丸くした彼に、笑ってみせる。
「ええ、お花の種類によっていろいろ効能があるんですって。弁慶さんのお墨付きですよ」
「なるほど……菖蒲や柚子ならば聞いたことはあるが、それと同じなのだろうか」
心得顔でひとつ頷いてから、九郎は急に真面目な顔をした。
「……おまえにしては女らしいことをしているんだな」
「どういう意味ですか!」
「いや、他意はない。誉めたんだ」
「本当ですか〜?」
「まあ、追求はするな。それでずっと花を摘んでいたのか?鞘を落としても気づかないとは、よほど熱中していたんだな」
「え、あ…それは……」
何気なく言われた言葉に俯いて、神子は少しだけ頬を染めた。
鞘を点検し、そこに剣を収めている彼をちらりと見て逡巡した後、小さく言う。
「……あの、私の世界の占いなんです」
「占い?」
「はい。こうやって花びらを一枚ずつ取っていきながら念じて、結果を見るんです。
私の世界では誰でも知ってることで、こんなに花があるのを見ると嬉しくて、つい」
「花で占いができるのか?すごいな、俺も寺にいるときに少し卦を学んだが、そんな方法は知らなかった」
「あ、あの……そんなたいしたものじゃなくてっ」
大いに感心した様子の九郎に、神子は慌てて言い繕う。
学術的な根拠があるものではなく、どちらかというと遊びのようなものだ、と説明すると、九郎の眉がつと顰められた。
「おまえの世界を悪く言う気はないが、占いとは本来神聖なものだ。いい加減な気持ちで扱っては後が怖いぞ」
「いい加減なんかじゃありません!」
むっとして、神子は彼を見上げて反駁した。
「そりゃ、ちゃんとした占いみたいに根拠とか理屈はないけど、でも、それを頼りにしてる人もいるんです。
占いって、当たるか当たらないかじゃなくて、出た結果をどう努力に結びつけるかが大事なんじゃないですか?」
「それはまあ……そうだろうが」
いつもより余計にむきになっているその姿を、不思議そうに見て。
ふむ、ともう一度頷き、持っていた剣を桶の横に丁寧に横たえる。
立ち上がり様、明るい髪に絡まっている薄桃の花びらを見つけた九郎は、それを取って神子の手に置きながら目を細めた。
「では、結果が出たら俺にも教えてくれ。おまえの努力を見せてもらうとしよう」
え、と目を見開いた彼女に花びらとぬくもりを残して、彼はゆっくりと歩み去っていった。
「……やだ、どうしよう。今やったらほんとに当たりそう……」
一人残された少女は赤い顔で呟いて、手桶の中の花に真剣な瞳を向けた。
END. |