「泰衡さ〜ん?いらっしゃいます?」
湯煙の向こう、遠くから自分を呼ぶかすかな声が聞こえる。
当然のように答える気のない彼は、湯になびく長い髪を煩わしげに掻き上げた。
しばらく後、とたとたと間抜けな足音が響いてきて、彼女の来訪を告げる。
「泰衡さん」
からりと板戸を開けた彼女は、どうして返事をしないのかなどと無駄なことを訊くこともなく、当然のように湯殿に足を踏み入れた。
すぐそばまで近づかれて初めて、面倒くさそうに視線を向ける。
彼女が満面の笑みで腕の中の『それ』を差し出すと、泰衡の眉間があからさまに寄せられた。
「今日もお願いしますねー」
「……………おまえは、先日の話を聞いていたのか」
「話?なんでしたっけ」
「手桶を返して水を被った、風邪をひくと大騒ぎをした挙げ句、ついでだからと五月蠅く言うからあの時は容赦したのだ。
もう二度とやらんと言ったはずだぞ」
「でもほら、今もついでじゃないですか?」
「フン、刻を見計らっておいてよくそのようなことが言えるものだ」
「だって、私がやると落としそうになるんですよ。危ないでしょ」
「不器用の極みだな」
「乳母さんに頼んだりすると、大泣きしちゃうし」
「俺の知ったことではない」
「じゃあ、よろしくお願いします。私はお風呂の外で待ってますから」
問答無用で『それ』を押しつけて、踵を返す。
入口まで戻って思い出したように振り向き、彼女は小さく手を振った。
「秀衡さんからいただいてきたお酒、用意してますから。楽しみにしててくださいねっ」
「……………。」
一人、いや二人で残された泰衡は、苦虫を噛み潰したような顔で手中の幼児を見、無造作に髪を引かれる痛みに更に眉を顰めた。
「……これは……悪夢か……?」
そこで、目が覚めた。
「………っっっっ!!」
がばっ、と物凄い勢いで跳ね起きて、泰衡は血走った目で周囲を見回した。
いつもと同じに静かな自分の居室。何も変わることはない。
けれどそれだけでは安心できず、焦って文机に置いてあった書状を掻き回す。
乱雑にこぼれ落ちた書状に記されているのは、来たるべき戦のための鎌倉の情報や周囲の武家の動向ばかりで、それは彼の記憶と違うことはなかった。
ほっ、とらしくない安堵の息をつきかけて。
ふと真顔になり、しばらく考え込んだ後、彼はついぞなく絶望した表情でゆっくりと床に視線を落とした。
彼が最も恐怖したのは、夢の内容ではなくそれが絶対に現実にならないと確信できないこと、だったから。
END. |