かたん、とかすかな音を立てて、漆塗りの箸が置かれた。
「……………。」
無言で重箱の蓋を閉める彼に、おずおずとお茶を差し出す。
おそまつさまでした、と勇気を出して言うと、相変わらず不機嫌そうな視線がちらりとこちらを向いた。
「……神子殿に於かれては、相当に腕前が上がっておいでのようだ」
「えっ!?」
思いがけない賛辞に目を丸くした彼女が、風呂敷を抱きしめて彼を見上げる。
「ほ、ほんとに!?本当ですか!?」
「勿論ですとも。私への呪詛かと見紛うた始めの頃とは、格段の差だ」
「…………えっ」
「これほどのものならば、犬猫の餌としては十分珍重されましょう。
ああでも、馬だけには関わらぬようお願いいたしますよ。体調の悪い軍馬なぞ、何の役にも立ちませんからな」
「……ごめん、なさい」
やっぱり、おいしくなかったんだ……
しゅん、と俯いてしまった彼女が、力無く膳を片づけ始めるのを見ながら、泰衡は熱い茶に口を付けた。
空になった重箱を風呂敷で包む。膳と茶器を部屋の入口に移動し、あとで女房が下げやすいようにする。
いつもの後始末を終えてから、神子は泰衡に向かってぺこりとお辞儀をした。
「じゃあ、今日はこれで失礼します。あの…また、明日……」
もう作って来ない方がいいですか、と、何度も考えた言葉が過ぎったが口にはせず、重い体に鞭打って席を立つ。
その時、とぼとぼと部屋を出ようとした彼女の耳を、聞こえるか聞こえないかの呟きが擽った。
「あれほど壊滅的な腕をしていながら、茶の味だけまともというのも不思議なものだ。……不味いことに変わりは無いが」
えっ、と振り向いた時には、彼はもう文机に向かっていて。
礼など言おうものならば機嫌を損ねるのが分かっていたから、彼女はもう一度勢いよく頭を下げて、幾分軽くなった足取りで廊下を駆けていった。
「うん、大丈夫。だってまずいとか不細工とかはさんざん言われたけど、持ってくるなとは言われてないし。
それに、一回も残されたことないし……まだ見込みがあるってことだよ!」
うんうん、と自分で自分を慰めながら、彼女は御所の表門へ向かって歩いていた。
毎日のことなので、各所に配置された家人もいちいち誰何はせず、目礼をして彼女を通す。
ようやく門が見えてきたとき、後ろから彼女を呼ぶ声がした。
「……あ、秀衡さん!こんにちはっ」
「神子殿、ようおいでなさった。たまにはわしのところで茶でも共にせぬか」
「はい。お邪魔でなければ喜んで」
とてとてと駆け寄ると、彼は豪快に笑いながら彼女を部屋に招き入れた。
「何、神子殿とご一緒できるなら仕事なぞ後回しでよい。わしは息子のような無体は言わぬぞ」
「あはは、泰衡さんならぜったい言いそうですよね〜」
「……………。」
何の気なしに応じた彼女に、秀衡は菓子の盆を勧めつつ、ふと真面目な顔になった。
茶を置き、少し躊躇ってから、口火を切る。
「時に、神子殿」
「はい?」
「その、神子殿が最近こちらによう来ておるのは、泰衡の所に通っておられると聞いたが……それはまことか」
「あ、はい。泰衡さんにお弁当を……えーと、お昼ごはんを作ってきてるんです」
「なんと……!」
嬉しそうにもらった饅頭を頬張りながら頷いた途端、彼の顔が怒りにさっと赤らんだ。
驚く神子の前で、すっくと立ち上がる。
「泰衡がそなたに婢女のようなことをさせておる、というのはまことであったか……!」
「?はし、ため??」
「なんということだ、神子殿は龍神の加護篤き高貴な御方……それをそのようにこき使うとは!」
「え!?あ、ひ、秀衡さん!」
「許せぬ!泰衡め、這いつくばって神子殿に詫びさせてくれようぞ!」
「や、あの、ちょっと待って下さい!違うんです!!」
すぐさま飛び出していこうとした袖をあわてて掴んだ神子は、ずるずると引きずられながら必死で言い募った。
「違うんです、それは私が好きでやってることで!泰衡さんにはお願いして食べてもらってるんです!」
「お願い、とな!?……しかし、神子殿がそのような雑役を……!」
「私のいた世界では、誰でも普通に料理とかするんです。譲くんなんて、私よりよっぽど上手で」
「なんと!譲殿までが賄いをなさるというか!?」
「そうなんです、だから泰衡さんがこき使ってるなんてことはないです!」
「……ふむう」
顎に手を当てて考え込んだ彼が、もう一度座り直すのを確かめて。
神子はようやく安堵し、袖口を握ったままへたり込んだ。
危ないところだった。もし秀衡が彼の所に怒鳴り込んでいたなら、間違いなく二度と口をきいてもらえなくなっただろう。
せっかく毎日譲に教わって努力して、ようやく『不味い』一辺倒から進歩した(ような気がする)のに、今ここでぶちこわされては水の泡だ。
やれやれと汗を拭った彼女をつと眺め、秀衡はもう一度ふむ、と唸った。
「神子殿は、泰衡がそなたを使い立てしているのではない、と申すのじゃな」
「はい、もちろんです。むしろ私の方が無理に押し付けちゃってて」
「……では、神子殿は何故、泰衡にそのような厚情を?」
「へ?」
きょとんとして見返すと、彼はいかにも不可解そうに小首を傾げながら続けた。
「我が息子ながら、あれが神子殿に素直に謝意を表すとは思えぬ。酷い言われようをしておるのではないか?」
「え…えーっと……」
「そんな者にわざわざ毎日賄いを届けずとも、神子殿の手ずからの品ならば喜ぶ者は大勢いよう。
御曹司でも八葉の方々でも、あれよりよほど報われように、何故そうまで泰衡を気にかけてくださるのだ?」
「え、と、……それは」
ほのかに頬を染めて、少女はゆっくりと俯いた。
どうしよう。どう説明すればいいんだろう。本当のことを言えば、礼を失してしまうかもしれない。
でも、あからさまに嘘をつくのも気がひけてしまう。
「ええっと……あの、泰衡さんには色々お世話になってますから……少しでもお役に立てればと」
しばしの間悩んで、結局彼女は当たり障りのない返答を口にした。
まだ納得がいかない風の彼から逃げるように暇を告げ、部屋を出る。
ぱたぱたと出口へ向かいながら、神子はこっそりと口の中で呟いた。
「……泰衡さんなら、何があっても気を遣ったりお世辞言ったりしないから、なんて……言えないよねえ」
実際、彼女も八葉や朔、白龍、銀にまで食事を振る舞ったことがある。
しかし、八葉や朔は程度の差こそあれ複雑そうな顔をして黙り込み、それでもどこかしらを誉めようと四苦八苦して彼女を落胆させた。白龍や銀に至っては味など問題ではないような態度で、全くあてにならない。
自分が本当に料理上手になるには、泰衡くらい毒舌な人間でなくては駄目なのだ。
『ぜったいに認めさせてみせる!』そう心に誓いつつ、神子は握り拳を固めて気合いを入れた。
「泰衡の役に立つために好きでやっておると……??」
そして、神子が出て行った後しばらく一人で熟考した秀衡は、足早に息子の部屋に出向くと彼の背中をばんばん叩きながら哄笑したのだった。
「ようやった、泰衡!まさかお前が神子殿にあのように慕われようとは、まっこと思いもせなんだ!
わしはお前を見直したぞ!これで藤原の嫡流も安泰よ、のう!!」
「……………。。。」
びしり、と鞭にひびが入るほど握りしめた総領息子が、次の日を覚えていろと複雑な怒りに肩を震わせたことなど、今はまだ神子の知るところではなかった。
END. |