「もー!嫌い嫌い!だいっきらーい!」
突然聞こえてきた声に、歩いていた足がぴたりと止まった。
周りには誰もいないのに、困惑して辺りを見回してしまう。しばらく迷った後、私は逡巡しながら、声のした方に足を向けた。
まだ聞こえる声を辿った先は、美しく整えられた庭。
夏の強い陽光に照らされた緑豊かな草木の中、声の主が無邪気に庭中を駆け回っている。
その傍らには、水の入った手桶と柄杓を抱えた、彼女の幼なじみの姿。
「ひゃ、やめてったら、将臣くん!濡れるってば!」
「涼しくしてって言ったのはおまえだろ。おら、大人しくこれでも被りやがれ!」
「ぅわっっ!」
将臣殿は楽しそうに笑いながら、桶に残った水をざば、と彼女に浴びせかける。
頭からずぶ濡れになった神子は、ぼたぼたと落ちかかる水滴を拭いながら、頬をふくらませた。
「もー!こんなこと頼んでないよ!」
「んだよ、いいじゃねえかよ。この世界にゃクーラーもプールもないし、涼むなら水浴びくらいしかねえだろ」
「だからって普通、こんなことする!?もー、将臣くんなんてきらーい!」
ずき、と。
胸が痛んだ。
嫌い、好きではない、好ましくない。それらはみんな、私が幼少の頃から聞き慣れた評価だった。
そして今は、それよりももっと本質的なおぞましいとか穢らわしいという言葉が相応しい身の上になっている。
燦々と降り注ぐ太陽の下で、あのように笑いながら、楽しそうに『嫌い』と言ってもらえるような立場ではないのだ。
庭とは対照的に、薄暗く静かな柱の陰で、私はそっと目を伏せた。
「あれっ、敦盛さん?」
気づかれずに立ち去るつもりで踵を返した時、後ろから彼女の声がして、継いでぱたぱたと軽い足音がした。
「敦盛さん、どこかにお出かけですか?」
「い、いや……別に」
「よかった。今、探しに行こうとしてたんです」
「……私を?」
振り向くと、すぐ傍に碧の瞳。
身長が近いせいか、もう少しで触れそうなところにそれはあって、私は無意識に後ずさった。
「あ…、ごめんなさい。敦盛さんまで濡れちゃいますよね。もー、将臣くんが悪ふざけしてっ」
「い、いや、そうではなくて……それより神子、そのままでは風邪をひく。着替えた方がいい」
「大丈夫、今日はすごく暑いから。すぐ乾きますよ」
「しかし、万が一体に障ってはいけないだろう。……せめてこれを」
「え?」
思わず紗の上衣を脱いで差し出すと、彼女は目を瞬かせてそれを見た。
びく、と、差し出した手が揺れる。
汚らしいおぞましい穢らわしいそんな表情が、この綺麗な瞳に顕れたら。
曖昧な笑みを浮かべて、謝絶されてしまったら。
「あ…っ、す、すまな…っ」
それが当然の反応だと、誰よりも思うのは自分なのに。
そんな反応をされても、神子の清らかさにはなんの翳りももたらさないと思うのに。
なのに。
「えっと。借りたら濡れちゃうけど、いいですか?」
彼女がいつも、そんな風に自分の期待を裏切らないから。
「……ああ。構わ、ない」
「じゃあ、お借りしますね。えへ、敦盛さん大好き」
いつも、まるでなんでもないことのように、耳慣れない言葉を告げるから。
「…………神、子。それで……その……なにか、用向きでも?」
「うーん、用ってほどじゃないんですけど。暑いから、敦盛さんと一緒に涼もうかと思って。
ほら、釣殿の方に風の通るところがあったじゃないですか。そこでお昼寝でもしませんか?」
もしかしたら自分に、彼女にとってほんのわずかでも価値があるのではないかと、誤解してしまう。
彼女のそばにいて、彼女を見つめていても赦されるのではないかと……そんな夢のようなことを考えてしまう。
神子であるが故の慈悲なのかもしれない。
八葉である自分への義務感なのかもしれない。
身の上を憐れまれているのかもしれない。
けれど。
「神子……?」
私の膝を枕にして、私の上衣を羽織って。
何の不安もないようなあどけない顔で眠る彼女は、私の夢ではないようだから。
彼女にならば『嫌い』と言われても心は痛まないかもしれない、と、思って私は息をついた。
彼女の言葉なら、たとえ蔑みの言葉であっても耳に心地良く響くと思うから。
END. |