いつか、終焉が訪れるだろうと思っていた。
そして、それが遙か未来の話ではないことも知っていた。
世の底辺を這うような二度目の生の末、遂に訪れた終わりはしかし、考えてみることすらできなかった穏やかさに満ちていて。
たとえ何度生き直しても、私はもうそのためにしか生きられない。
◇ ◇ ◇
ぱたぱた、と軽い足音に、私はふと我に返った。
振り向かなくても気配は分かるから、濡れ縁に立ったまま外を眺めていた姿勢をこころもち屈め、彼女を待つ。
「経正さんっ」
ばふ、と些か可愛げのない音を立てて、後ろから背中に飛びつかれる感触。
屈んでいなければ身長差のせいで届かない肩のあたりになんとか掴まり、彼女は至近距離で覗き込んでくる。
その愛らしさに堪えきれなくなって、私は極上の笑みを零した。
「ごきげんよう、神子殿」
「おはようございますっ。経正さん、何してるんですか?」
「何も……。ただ、空を見ておりました」
「そら?」
確かめるように視線を上げると、彼女の瞳に映る浅葱。
いつもと違う輝きを放つそれに目を細めてから、私は同じようにまた空を見上げた。
「空というものは、こんなにも明るく青いものだったのだと、実感していたところです」
「ふーん…?今までは、青く見えなかったんですか?」
じゃあ、何色に?という短絡な感想に、ついくすくすと声が漏れる。
目を瞬かせた神子殿が、気分を害したように唇を尖らせるから、私は懸命に笑いを抑えながら彼女の頭に手を置いた。
白い陽光、青い空。
庭の緑を透いて届く、淡いぬくもり。
人でいた時さえ、私はそんなものをしみじみと感じる心境になどなかった。
雲上の宴と戦場、それを行き来する生活が自分に相応しいと思ったことはないけれど、伯父上の一門に生まれたからにはそれが当然なのだと思っていた。
そして人でないものに堕ちてからは、月の光すら届かない闇夜が唯一、生きることを許される場所だと思っていたのに。
「何もかも、変わったのですよ」
あなたに出逢って、世の中の全ての色が。
続く言葉を胸の中で呟くと、彼女は不思議そうに首を傾げる。
それ以上何も言わず、ただ頭を撫でる私をしばし見つめた後、神子殿は気を取り直したように頷いた。
「少なくとも、悪くなった…ってわけじゃないですよね?」
「ええ、勿論です」
「よかった」
淀みない答えに安堵の息をつき、よいしょ、と床に降り立つ。
そよいだ風に吹かれ、背の温みは瞬く間に消えてそれにわずかな寂寥を感じながら振り向くと、上目遣いに私を見るいつもの姿があった。
「経正さん……なんだかさっき、哀しそうに見えたから。いやなことでもあったのかと思いました」
「私が?」
少しだけ驚いて、彼女を見返す。
先刻、自分はそんな顔をしていただろうか?
確かに昔との違いを噛みしめてはいたけれども、安らかな今を喜びこそすれ、憂うことなどないはずなのに。
「あ、あの、そう見えただけかもしれないんですけど……」
「……………」
しかし、もじもじと下を向く彼女の頬が薄く染まるのを見て、その理由が分かった気がした。
地位にも身分にも依らず、どのような者をも惹きつける、尊い龍の神子。
きっと、元の世界でも周りの者に慕われていたのだろう。愛する家族がいて、心安い幼なじみがいて、師も知己も少なくはなかっただろう。
彼女をこの京に、この手の届くところに留め置くことがどれほどの罪なのか、考えないわけではなかったけれど。
それでも、彼女が違う世界に戻って行くのだと思ったとき、密かに肌が粟立つような心地がした。
そして、自分の価値を知らない無邪気な少女がこちらに残ると言ったとき、それを諌める言葉を私は持たなかったのだ。
「……あなたのそばで暮らしているのに、嫌なことなどありませんよ」
虚言ではないそれを、まるで戯れ言のように告げると、彼女は一瞬きょとんとして。
それから、悪戯っぽく笑った。
「そうですよね。だって、経正さんは私のために生きてるんですもんね?」
「御意に御座います」
苦笑に近い表情で答えると、彼女は嬉しそうに私の腕を取り、『私が経正さんを幸せにします!』と拳を握る。
徐々に薄く、しかし深くなっていく胸の痛みに気づかないふりで、私は恭しく彼女の御手を押しいただいた。
「よろしくお願いいたします、神子殿」
「はい!じゃあ、とりあえず朝ごはん食べに行きましょうか?」
「ええ、是非」
「お口に合えばいいんですけど……」
「もしや、神子殿が作られたのですか?」
「え、えーっと、……少しだけ」
「それは楽しみです」
「えっ、あの、でもほんとにお粗末ですから!」
「いえいえ、期待しておりますよ」
「しないでください〜!」
半ば本気で慌てる彼女を穏やかな目で見ながら、心の奥底で感情に蓋をする。
とうに世を捨てた自分がこのような気持ちを抱くなど、思ってもみなかった。
怨霊のこの身を浄化せず、責めることすらせず、世の理に反しても救おうとしたあなた。
生き残るつもりなどなかった、死に場所を探していた私に、生きて在る理由を与えてくれたあなた。
すでに指の先まで全てあなたのものであった私が、どうしてあんなことができたのだろう。
御空へ還るべき天人を、この現し世に留めたことが、私の最後の罪。
そしてその罪は、この身が朽ち果てようとも、二度と償えはしない。
私はこの罪科と共に、終わらない命を生きていく。
ただ、あなたのためだけに。
END. |